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江戸

  江戸の「え」が「やいゆえよ」の「え」だというのは何の根拠もない。強いて言えば明治の初期、外国人が江戸を「YEDO」と表記していたことが理由に挙げられるが、これは欧米人にとっては「エ」より「イェ」の方が言いやすいためで、お金の単位である「円」がお札に「YEN」と書かれているのも同じ理由かららしい。
 さて、江戸すなわち東京の隅田川に掛かる両国橋は「武蔵と下総」の国境の橋だから両国橋と呼ばれるのだと、むかし修学旅行のバスガイドさんらに聞いた覚えがある。普通旧国境と今の都道府県境とは重なっているものだから、その話を聞いたとき、「なんで?」と疑問を持った。隅田川は今や東京の真ん中のようなところで、そこが国境だったというのはちょっと信じられなくて、ずっと不思議に思っていた。
 江戸は元々武蔵国の海沿いの小さな村の名前で、室町時代に太田道灌が城を築き、後に小田原の北条氏の支配下となった。北条氏を滅ぼした豊臣秀吉の命で1590年に徳川家康が江戸に入った時には、「東は一面の汐入の葦原、西南は平々として萱原の武蔵野に続く」何もない所で、城下に民家はわずか100軒ほどだったそうである(池波正太郎「江戸古地図散歩」)。それが、江戸幕府が開かれたことで急発展し、 わずか20年後に15万都市となり、1657年、明暦の大火で一度は焼け野原となったが、それをきっかけに、幕府主導で計画的な都市再建が行われ、隅田川以東が本格的に開拓されて、江戸の都市域となったという。17世紀末の元禄時代に武蔵国と下総国の国境が変更され、隅田川から江戸川にかけての今の江東、江戸川、墨田、葛飾、足立の5区に当たる旧下総国葛飾領が武蔵国に編入され、その後まもなく人口100万人という当時では世界一の都市となった。
 今の東京一極集中のルーツは、振袖火事といわれる明暦の大火にまでさかのぼるようだ。


隅田川に架かる現在の両国橋。
上を首都高速道路がまたぐ

京葉道路の両国橋西詰め(都心側)
にある両国橋の標識
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