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不妊

 結婚したのが1970年5月、娘が生まれたのが81年4月だから、実に11年間も子宝に恵まれなかったことになる。学生のまま新婚生活に入ってしまったので、披露宴で父親から「せめてこどもは一人前になってからつくるように」と釘を差されたせいもあり、最初は避妊がうまくいっているのだろうと、気にもしていなかった。しかし、卒業して新聞社に入ってからは、周囲から「子供はまだか」という催促が聞こえはじめ、父母のところにも次々「お孫さんは?」という質問が来るようになってきた。そして、75年10月、父が急死した後は、「お孫さんの顔が見られず、心残りだっただろう」とか「残されたお母さんのためにも早く孫を」とみんなに言われ、プレッシャーが強まる一方となった。
 「どこそこのお宮さんがご利益があるそうだ」「○○という拝み屋さんに行くと良いらしい」という話がひっきりなしになってきて、ついに、78年ごろから、まだ大阪勤務だったのに、当時不妊治療の最高権威といわれた慶応病院に行くため東京に通い始めた。
 夫婦両方に、決定的ではないが出来にくい原因があるという診断で、受精しやすい時期を選んで毎月上京、なるべく濃い精液をトイレでビーカーに採取(自力採取です。誰も助けてくれません)、それを看護婦さんに渡し、人工授精のようなことをするわけだ。
 なかなか結果が出ず、2年ほど続けているうちにだんだん嫌になり、80年夏ごろ「もう出来なくても仕方ない」と思ってサボったら、不思議なことにその月に妊娠した。そんなこととは露知らず、翌月妻の両親・兄弟やそのこどもたちと妙高高原に旅行し、野尻湖でボート遊びなどを楽しんだ後で妊娠が分かり、「ヤバかった」と胸をなでおろした思い出がある。当時「一人出来たら次々出来ますよ」と多くの方に言われたが、結局、妊娠は後にも先にもこの一度だけ。「奇跡」のような子宝だが、顔は私や父によく似ている。


    
(左)11年かけて生まれた娘みさと出生直後の姿。当時はよく「おじいちゃん似だ」といわれた。彼女も今22歳となり、我々夫婦は結婚33周年である
(右)不妊治療に通ったJR信濃町駅前の慶応病院もリニュアルされ、1980年ごろとは見違えるような立派な建物になった

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