I will support Ohashi For tomorrow.
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談



四十七士

 47といえば、日本人ならやっぱり四十七士が浮かぶのが普通であろう。だが、私は幼いころ両親に「忠臣蔵って何?」と尋ねて、「へえ、今の子は忠臣蔵も知らないのか」と驚かれた覚えがある。当時は、いわゆる戦後教育が全盛のころで、「仇討ち」とか「復讐」ということは、戦争に負けた日本が米国に仕返しをすることにつながるから、学校で教えないのだと言う説がまことしやかに語られていた。だが、サルカニ合戦やかちかち山など復讐がテーマのおとぎ話はちゃんと知っていたから、米国の深慮遠謀というのもちょっと違う気がする。主君が殿中で喧嘩し、刃傷沙汰に及んで切腹を申し付けられたのを不服とした家来が2年近く準備を重ね仇討ちに成功し、全員が切腹になるという話が、合理主義の米国人に理解されず、気味悪く思われただけではないかと思う。占領期を過ぎると忠臣蔵は息を吹き返し、何度もドラマ化され、年中行事化する。日本人には分かるテーマなのだ。
 ところで、実際に元禄15年12月14日に吉良邸に討ち入りした大石内蔵助以下47人の赤穂浪士のうち寺坂吉右衛門だけは直後に姿を消し、主君の墓所がある高輪・泉岳寺へ行かなかったのは有名な話で、大石内蔵助から「歴史の証人となれ」と密命を受けたとか、唯一足軽身分だったので逃がしたとか言われるが、そもそも討ち入り前に逃亡したという説も根強い。残る46人が切腹した後で公儀に自首したが、不問に付されたという。
 従って古くから「正しくは四十六士だ」という論もあるが、討ち入りから「47年目」に事件を室町時代に置き換えた「仮名手本忠臣蔵」として人形浄瑠璃化され、後に歌舞伎随一のヒット作として定着した芝居は、「47」という人数が「いろは47文字」と符合することをヒントに、江戸「いろは47組」の町火消し装束のような討ち入り装束を考案したといわれており、それやこれやで「四十七士」でないと都合が悪くなったのだろう。
(丸谷才一「忠臣蔵とは何か」=講談社学術文庫=などを参考にしました)


浅野内匠頭と四十七士の墓がある高輪・泉岳寺


火消し衣装も鮮やかな仮名手本忠臣蔵の討ち入り場面を描いた初代豊国の作品(演劇博物館所蔵)
<back>
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

 大橋建一へのご意見等は、こちらから。  E-Mail : info@ken-ohashi.jp