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山本五十六

 若い世代は山本五十六元帥(1884〜1943)のことを知らない人も多いはずだ。実は私も(若くはないが)中学生時代に初めて知った。ただ、五十六(いそろく)という名前はインパクトが強く、しかも「父親が56歳の時の子だから」と必ず説明があり、「へエ56!? すごいねえ」「お父さんも頑張って」となるから、一度聞いたら忘れない名だ。
 五十六は、小泉首相の演説で有名になった「米百俵」の旧長岡(現新潟県長岡市)藩士・高野貞吉の六男として生まれた。戊辰戦争で幕府について窮乏した藩に、支藩から贈られた米百俵を、藩士に配らず売って創設した国漢学校の流れを汲む旧制長岡中学から海軍兵学校に進み、1904年に卒業、直後に日露戦争が勃発した。日本海海戦で指切断の重傷を負ったが、順調に頭角を表し、1915(大正4)年に山本家を継ぐ。4年後ハーバード大学に留学して米国の国力を目の当たりにし、航空機時代到来も実感した五十六は、一貫して対米戦争には消極的で、海軍次官、連合艦隊司令長官時代も日独伊3国同盟締結や戦艦大和建設に反対し続けた。しかし、日本は対米開戦の道を転がるように進んでいく。
 1940年、時の首相近衛文麿に戦争の見通しを聞かれ、「是非やれと言われれば、初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れます。しかしながら、二年、三年となれば全く確信は持てません。(中略)回避するよう極力ご努力願いたい」と答えたが、願い空しく、翌年日本は開戦に踏み切った。五十六はやむなく「桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行う」ような真珠湾攻撃作戦を編み出し、成功させるが、予言通り1年後には劣勢となる。
 1943(昭和18)年、前線視察のため訪れていたソロモン諸島ブーゲンビル島上空で、乗機を米戦闘機に撃墜され、トランプゲームのコントラクトブリッジが大好きだった勝負師は戦死した。当時の日本にとってその死が大変な損失であったことは間違いない。

 
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