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72系

 終戦から5年も経っていない55年前のきょう、すなわち1951年4月24日、旧国鉄京浜東北線の桜木町駅手前で、下り電車が走行中に火災が発生し、先頭車が全焼、2両目も類焼して106人が死亡、92人が負傷する大惨事となった。桜木町事故である。
 この火災は、工事のミスで切断された架線が車体に接触して発火したために起きたもので、戦時下に資材節約優先で製造された「63型電車」の構造的欠陥が悲劇を招いた。通勤通学者を大量輸送するため車長を従来より長い20mにし、乗降がスムーズになるよう片側のドアを4枚にしたのは先進的だったが、車体は外板だけが鋼板で、扉も屋根も木製、車内はペンキ塗りで燃えやすく、窓が中断を固定した3段窓で脱出が困難だった。また、扉を開く非常コックの場所が分からず、隣の車両への通路のドアは内開きで、150人が乗って満員だった1両目から2両目へ逃げようにも、スシ詰めで扉が開けられなかった。
 この惨事を教訓に、当時の国鉄はモハ63型など戦時設計の危険車両800両について、「63型」の長所は生かしつつ、車両の難燃化、パンタグラフの絶縁強化、車両間の通路や窓の改造、非常コックの位置明示などの緊急対策を実施した。こうして「63型」は、その後2年で「72系」といわれる「モハ72」「クモハ73」「サハ78」「クハ79」に生まれ変わったのである。この「72系」車両は、中央線、総武線、山手線、京浜東北線などに101系、103系の両開きドアの車両が導入された1960年ごろまで首都圏の通勤輸送の主役として活躍し、その後も各地のローカル線で働き続けたのである。
 桜木町事故から54年と1日後の昨年4月25日、JR西日本の福知山線で快速電車が転覆し107人が死亡する事故が起きた。スピードを上げるため車両の軽量化は進んだが、車両の安全対策は不十分だったわけで、桜木町事故の教訓はどこへ消えたのだろうか。


72系の標準的な編成=先頭がクハ79、次がモハ72=1968年11月、阪和線天王寺駅付近で


70年8月、仙台−石巻を結ぶ仙石線・陸前原ノ町駅に停車中の72系車両
=先頭がクモハ73、2両目がサハ78


80年1月、首都圏の鶴見線から72系が姿を消すことになり、クハ79、モハ72、クモハ73の3領編成お別れ電車は満員=国鉄が作った看板は「73形さようなら」と記されている


72年3月、大井工場に停車中のモハ72970(中央)=両開き扉のオレンジ色車体は103系にしか見えない程きれいにお色直しされている(いずれも山と渓谷社「20世紀なつかしの旧型国電」から)
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