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98人?

 小倉百人一首の作者が98人しかいないのではないかという「疑惑」について書く。
 前にも書いたが、小倉百人一首は、9世紀から13世紀にかけて次々成立した古今、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今、新勅撰、続後撰という10の勅撰和歌集に載せられた多数の和歌から、鎌倉時代の歌人・藤原定家が、古今の歌詠み計百人の作品を一人一首ずつ選定したものといわれる。さて、まず疑わしいのは22番の文屋康秀(ぶんやのやすひで)「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」である。
 百首中唯一「ふ」で始まり、かるたの読み手が「ふ……」と発した途端に取り札を弾くことができる「一字決まり」、いわゆる「むすめふさほせ」の「ふ」だ。原典は古今集で、「是貞親王の家の歌合の歌」と記される。「田辺聖子の小倉百人一首」(角川文庫)によると、古今集のいくつかの古写本には作者が「あさやす」とあり、歌合が行われた時期からみても康秀の子・朝康の作という説が有力だそうだ。文屋朝康は37番「しらつゆに風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」が採用されているので、1人2首となる。
 もう一つは正体不明の猿丸大夫作とされる5番「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき」だ。梅原猛が「柿本人麿刑死説」を唱えた名著「水底の歌」で、続日本紀に柿本朝臣サル(「サル」はけものへんに「爰」)なる人物が出てくるのを根拠に、人麿=猿丸説を打ち出した。
 人麿は明石の人丸神社のように「人丸さん」と親しまれているが、梅原は人麿の後半生を政治犯の流人だったと考え、和気清麻呂が宇佐神社の神託を盾に道鏡を失脚させたのに怒った称徳天皇によって「別部穢麻呂」と改名させられ遠島となった例をあげて、人丸も天皇の怒りを買い、猿丸に改名させられたとする。もちろん人麿は3番「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む」とダブるので作者は計98人となる。


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百人一首の中で「1人2首」が疑われる文屋康秀と朝康、演至ロ太夫と柿本人麿



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