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市民が主役

惰学記


ハ115

 東京都杉並区桃井3丁目。荻窪警察に隣接する青梅街道沿いの一角は、今や高級マンションと介護施設、そして広々した公園のあるニュータウンとなっているが、元々は三菱重工とともに戦前のわが国航空機産業を支えた中島航空機のエンジン製作工場であった。
 1917年に当時33歳だった中島知久平・退役海軍大尉が現在の群馬県太田市に設立した中島飛行機研究所が欧州の先端航空機技術を吸収し急発展、東京での国産エンジン開発をめざして当時の豊多摩郡井荻町に3,800坪を購入、24年に東京製作所として操業を始めた。
 英社の空冷星型9気筒ジュピターをライセンス生産して技術を学び、30年に独自設計による「寿」が完成。続いて小型・軽量化しつつ性能をアップした空冷星形複列14気筒、公称970馬力の「ハ25(ハは発動機の略記号)」(海軍名「栄11」)を開発した。このエンジンを基にさらに改良を重ねたのが今回の表題であるハ115(海軍名「栄21」)である。
 ハ115はベアリングや潤滑性能向上で回転数を上げることに成功、公称1020馬力(再改良後のハ115U型は1230馬力)を達成したほか、背面飛行などで混合気が濃くなり過ぎるのを防ぐ機能を備えた独自開発の気化器を採用、空戦性能向上に大きく寄与した。約3万基製作され、自社製の九七式艦攻、一式戦闘機「隼」はもちろん、三菱の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、川崎の九九式双発軽爆機等の著名機にも搭載、中島の最高傑作と言われた。
 戦後中島飛行機はGHQによって富士重工と富士精密工業(後のプリンス自動車)など12社に解体され、東京製作所はプリンス自動車に受け継がれた。さらに、プリンスが66年に日産と合併したため、以後は日産の荻窪工場として航空宇宙事業部の開発研究が行われたので、敷地内には「ロケット発祥之地記念碑」もある。新婚当時、妻が近くで働いていたことがあり、工場付近を何度か歩いたが、警備が物々しかったのを記憶している。

 ≪注≫1月15日に数シリーズ115回をUPすることになったのは全くの偶然で、不思議な気分だ。私は軍事オタクでも飛行機オタクでもないので、今回は大苦戦し、ホームページ「中島飛行機物語」やインターネット百科事典Wikipediaの記述を大幅に参考にした。


ゼロ戦 工場跡

中島飛行機のハ115エンジンを搭載した
三菱製ゼロ戦
(零式戦闘機)のイラスト(某HPより)




中島飛行機の工場があった杉並区桃井の
旧日産荻窪工場跡

=今は公園と高層マンションになり、わずかに
日産の販売店がかつての痕跡をとどめる



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