明日 I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

市民が主役

惰学記


117クーペ

 いすゞは今でこそトラック専門の会社だが、かつてはトヨタ、日産に次ぐ日本第3位の乗用車メーカーだった。1953年に英社と提携しノックダウン生産を始めたヒルマン・ミンクス、61年には国産ディーゼル乗用車の草分けとなったべレル、63年に日本初の4輪独立懸架、ディスクブレーキ採用のべレット、わが国で初めてGTを名乗ったべレットGT(64年)など常に時代の先取りをめざす意欲的な車づくりを心がけると評価されていた。
 そのいすゞが68年に売り出したのが、今も名車と語り伝えられる117クーペである。 後にVWゴルフやアルファ・ロメオなど数々の名車を手がけたイタリアの工業デザイナー、 ジウジアーロの出世作となった斬新かつエレガントな外観と、飛行機のコックピットを思 わせるダッシュボードなどの魅力あふれる内装が車好きの心を捉えただけではなく、日本 初の量産DOHCエンジンを新開発し搭載、70年以後はこれもわが国で初めて電子制御燃 料噴射を採用し、1600cc120馬力(1800cc140馬力)、最高速度200kmの性能を誇った。
 ボディのデザインは曲面を多用しており、発売当初のいすゞの技術では機械でプレスすることが難しく、手作業で外板生産、組み立てを行い、月産30〜50台程度、当時の1600〜1800cc車の2倍以上の172万円という価格だった。しかし高価で台数が少ないことが117クーペの価値と評判を高め、販売力の弱い社にもかかわらず、飛ぶように売れた。
 GMと提携後の73年3月からはプレス成型が機械化され、量産化が始まったが、他の多くのいすゞ車同様モデルチェンジは行われず、エンジンなど内部は変わっても、外形は81年にピアッツァ誕生で生産終了するまで13年間ほぼ同じであった。しかし、最後まで人気は衰えず、総生産台数86000台余りなのに、生産終了から26年後の今も多くの愛好家が保有している。何しろ、最初の10年間1台の廃車も出なかったというのがすごい。

 (インターネットフリー百科事典「Wikipedia」などを参考にしました)

hatoyama.jpg


名車と呼ばれた「いすゞ117クーペ」



<back>
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

 大橋建一へのご意見等は、こちらから。  E-Mail : info@ken-ohashi.jp url