明日 I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
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市民が主役

惰学記


ラストダンスは私に

 越路吹雪は1980年、胃がんのため56歳で死去した。私のイメージでは、もっと年だったように思っていたが、まだ13歳の1937(昭和12)年に宝塚歌劇団に入団(51年退団)しており、戦時中から花組の大スターだったので、自然と貫録がつき、テレビの普及で顔を見るようになった1955年ごろには、30歳そこそこで「大姉御」の風格になったようだ。
 私の最初の記憶は4〜5歳ごろ、NHKラジオの「愉快な仲間」という番組で森繁久弥*1と共演して、毎週楽しいトークを聞かせてくれたことだ。おそらく父母がこの番組のファンだったのだろう。その後1959年から65年まで、森繁久弥と越路吹雪はNHK紅白に連続出場し*2、「紅白はこの2人を聴くのが楽しみ」というオールドファンも多かった。
 さて、宝塚退団後の越路吹雪は「シャンソンの女王」と呼ばれた。ピアフの「愛の賛歌」、アダモの「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」、映画主題歌の「パリ・カナイユ」などが大ヒットしており、シャンソン歌手であることは間違いない。だが、むしろ越路吹雪が歌うと何でもシャンソンになってしまうという意味で、「シャンソンの女王」の称号が与えられたのではないだろうか。彼女の「ラストダンスは私に」を聴くとそんな気がしてくる。
 「ラストダンスは私に」は元々アメリカン・ポップスで、オリジナルはドリフターズ*3だったが、越路吹雪の歌で聴けば、まごうかたなきシャンソンである。和製ポップス「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」(この曲で彼女は65年のレコード大賞歌唱賞を受賞している)や、夫の内藤法美が作曲した「誰もいない海」もシャンソンに聞こえる。
 和歌山には2つのシャンソングループがあって毎年夏に愛好家たちがゲストを招いて、それぞれ「パリ祭」を開く。私も毎年聴きに行くが、元々シャンソンではない曲もたくさん歌われる。大半は越路吹雪のおかげでシャンソンと「認知」されるようになった曲だ。

*1 森繁久弥は2009年11月10日、96歳で老衰のため死去した。
*2 森繁久弥の紅白出場は59〜65年の7回だけだが、越路吹雪は1952年の第2回に初出場し、56年の第7回から1966年の第20回まで連続出場した。
*3 もちろん、いかりや長介らの「ドリフ」ではなく、アメリカの黒人コーラスグループである。



<曲名が「ら」で始まる歌>らいおんハート(SMAP),ラストソング(谷村新司)、ラ・セゾン(アン・ルイス)、ラヴ・イズ・オーヴァー(欧陽菲菲)、ラブ・ストーリーは突然に(小田和正)、ラブ・マシーン(モーニング娘。)ら・ら・ら(大黒摩季)、ランナウェイ(シャネルズ)、羅生門(坂本冬美)、楽園(平井堅)、ララサンシャイン(森高千里)、ついで?に洋楽2つ=ライク・ア・ヴァージン(マドンナ)、ラブミーテンダー(エルビス・プレスリー)



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