明日 I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

市民が主役

惰学記


美しい十代

 1960年代前半の芸能雑誌は、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦を「御三家」と呼び、これに三田明を加えて「四天王」と称していた。そのせいか、三田明は御三家より後発のイメージがあるが、4人のデビュー時期を調べてみると、橋(ビクター)は「潮来笠」で60年、舟木(コロムビア)は「高校三年生」で63年6月、西郷(クラウン)は「君だけを」で64年、そして三田(ビクター)は63年10月に「美しい十代」でデビューしている。
 つまり、先にデビューした三田明を飛ばして、西郷輝彦は御三家の一員になれたのである。たぶん、三田が先輩格の橋と同じレコード会社なので、バランスを考え、外されたのだろう。しかし当時の三田明の人気は、時に御三家をしのぐほどのものがあり、「無冠」にはしておけないということで、後から「四天王」という呼び名がつけられたのだろう。
 さて、三田明は1947年6月生まれだから、ちょうど私より1歳下の団塊世代で、1962年に日本テレビ系オーディション番組「ホイホイ・ミュージック・スクール*1」で合格、翌年デビューした。当時の三田は「眉目秀麗とはこんな男の子のことか」という感じの典型的なハンサムで、三島由紀夫が三田のファンだったとか、写真家の巨匠、秋山庄太郎が「日本一の美少年」と絶賛したという伝説がある。「美しい十代」は青春歌謡の名曲として記憶されているし、他にも「みんな名もなく貧しいけれど」「若い港」「ごめんねチコちゃん」「若い翼」「恋人ジュリー」「夕子の涙」「太陽のカーニバル」などのヒットがあり、吉永小百合とのデュエットで出した「明日は咲こう花咲こう」もかなり有名だ。
 三田明は「ものまね上手」でも有名で、玉置宏司会の「象印スターものまね大合戦*2」で御三家はもちろん一節太郎の「浪曲子守歌」まで見事にまねて歌っていたのが印象に残っている。そういえば森昌子も歌まねが上手で、この2人は別格という感じだった。

*1 ホイホイ・ミュージック・スクールは1962年から65年にかけて土曜午後7時半から30分間放送された味の素提供のオーディション番組で、司会は木の実ナナ(番組開始当時15歳だった)と鈴木やすし。三田明以外に布施明、望月浩らがこの番組で合格してプロデビューした。
*2 象印スターものまね大合戦は1967年から77年にかけて約10年半、NET(現テレビ朝日)系で日曜日の午後7時半から30分間放送された歌番組。プロ歌手が他人のものまねを披露するのがウリで、玉置宏が司会、大久保怜、猪俣公章、渡久地政信、栗原小巻らが審査員だった。毎回のチャンピオンに象印賞が贈られ、チャンピオン大会が年に何度か開催された。


<曲名が「う」で始まる歌=なぜか童謡が多い>ウェディング・ベル(シュガー)、ウォンテッド(ピンクレディー)、うさぎとかめ(童謡)、うさぎのダンス(童謡)、うそ(中条きよし)、歌ってよ夕陽の歌を(森山良子)、宇宙戦艦ヤマト(佐々木功)、美しき天然(島倉千代子)、ウナセラディ東京(ザ・ピーナッツ)、うぬぼれワルツ(木の実ナナ)、生まれ来る子供たちのために(オフコース)、海(唱歌)、海を見ていた午後(ユーミン)、海・その愛(加山雄三)、海雪(ジェロ)、海は恋してる(ザ・リガニーズ)、裏切りの街角(甲斐バンド)、浦島太郎(童謡)、裏町人生(鶴田浩二など)、怨み節(梶芽衣子)、うれしいひなまつり(童謡)、噂の女(クールファイブ)



<back>
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

 大橋建一へのご意見等は、こちらから。  E-Mail : info@ken-ohashi.jp url