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市民が主役

惰学記


グッド・ナイト

 「グッド・ナイト」は1992年に57歳で不慮の死を遂げた松尾和子のレコードデビュー曲である。1945(昭和20)年の敗戦によって、わが国には多くの占領軍兵士が駐留するようになり、占領軍相手に主にジャズやポップスを歌う日本人の洋楽歌手が多数誕生した。松尾和子もその一人で、主に米軍キャンプやナイトクラブで歌っていたが、プロレスの力道山が経営していた東京・赤坂のクラブでフランク永井にスカウトされた*1という。
 1959年、日本ビクターの黄金コンビである佐伯孝夫作詞、吉田正作曲で制作されたデビュー盤はA面が「グッド・ナイト」で和田弘とマヒナスターズとの共唱、B面がフランク永井とのデュエット「東京ナイトクラブ」で、当時のビクターの力の入れようが分かる。
 続いてマヒナとの共唱で出した川内康範作詞・吉田正作曲の「誰よりも君を愛す」が翌1960年の第2回レコード大賞に輝き、その年にソロで出した「再会」も高く評価され、彼女は全盛時代を迎えた。さほど美人ではなかったが、ハスキーで、何となくけだるい感じの歌い振りが色っぽくて、「ムード歌謡の女王」と呼ばれた。マヒナとの共唱では、64年の「お座敷小唄」、66年の「銀座ブルース」もデュエット曲として今も歌い継がれている。
 だが、その後はヒットに恵まれず、70年代半ばの「熟女ブーム」で甦ったものの、91年に息子が覚せい剤事件で実刑判決を受け、活動自粛を余儀なくされて睡眠薬を多量に服用するようになり、92年9月、自宅で階段から転落して頭部を強打、数時間後に死亡した。
 紅白出場4回中、デュエット出場は最後の89年*2だけで、60〜62年はいずれもソロで登場した。当時の紅白は「紅組は女、白組は男」が徹底していて、男女のデュエットでは出られなかった*3。松尾は60年にソロで「誰よりも君を愛す」を歌い、62年には橋幸夫が1人で「いつでも夢を」を、吉永小百合はマヒナ抜きで「寒い朝」を歌ったのである。

*1 この辺の話はインターネット百科事典ウィキペディアによる。
*2 この年の紅白歌合戦は「40回記念」ということで懐メロ歌手がどっさり出場した。松尾和子は紅組で出場し、和田弘とマヒナスターズとのデュエットで「誰よりも君を愛す」を歌った。
*3 男女混声チームが紅白出場をしたのは1968年に紅組から出場したピンキーとキラーズ「恋の季節」が最初である。なお、60年の第11回紅白ではマヒナスターズは「お百度こいさん」を、62年には「泣かせるね」を白組で歌ったが、89年に松尾と「誰よりも君を愛す」で出場した時は紅組だった。



◆曲名が「ぐ」で始まる歌が、当然ながらほとんどがカタカナ題名である。日本語といえるのは、愚図(研ナオコ)、ぐでんぐでん(萩原健一)ぐらいなもので、あとは、グッデイ!!(V6)、グッド・ナイト・ベイビー(キングトーンズ)、グッド・バイ・マイ・ラブ(アン・ルイス)、グリーングリーン(唱歌)、グロリアス(GLAY)、グロリアスマインド(ZARD)、という具合である。



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