明日 I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

市民が主役

惰学記


襟裳岬

 1966年、「女のためいき」で歌手デビューした森進一は当時18歳。独特のかすれ声が不思議な人気を呼び、その後も「命かれても」「盛り場ブルース」「花と蝶」とヒットを飛ばし続けて、69年には「港町ブルース」で21歳にして紅白歌合戦の白組のトリを務めた*1。
 その後もコンスタントにオリコン上位を占める曲を出し続けたが、71年の、後に作詞者の川内康範とのバトルが話題となった「おふくろさん」を境に、さすがに「ためいき路線」が飽きられたのか、ヒットが続かなくなり、母親の自殺事件などもあってやや低迷した。
 その森進一が74年1月に、岡本おさみ、吉田拓郎という当時のフォークソングのエースの作詞・作曲による「襟裳岬」を出した時は、最初プロダクションもレコード会社も首をかしげたそうだが、ド演歌とフォークのミスマッチが話題となり、オリコンのチャートも急上昇、売り上げは100万枚を超え、森進一が歌手として新境地を開くエポックメーキングな曲となった。「襟裳岬」はその年の賞レースを独走、日本歌謡大賞、日本レコード大賞をダブル受賞し、その年の紅白歌合戦では、森が初の大トリで「襟裳岬」を熱唱した*2。
 襟裳岬には2度行ったことがある。最初は一人旅で68年10月*3に列車とバスで行き、2度目は82年8月に妻とまだ1歳半だった娘を連れてレンタカーで行った。北海道は渡島半島が取っ手*4の形でくっついた菱形をしているが、襟裳岬は菱形の南の先端部にある。列車の時は苫小牧から日高本線の終着駅様似までゆき、あとはバスである。車ならやはり苫小牧からひたすら南東に向けて、競走馬の牧場が続く菱形の左下斜辺を進むわけである。
 苫小牧から160km余り。やっとたどり着いた襟裳岬は、秋も夏も先端の草原のような場所から太平洋の荒波が打ち寄せる岩場に下りていく階段を大勢の観光客が行き交っていたが、そこから見渡す海の向こうも、岬周辺の陸上も、歌の文句通り何もなかった*5。

*1 紅白出場2回目でトリとなったのは初期の1957年(第8回)の美空ひばりと三橋美智也の例があるが、それ以後では69年の森進一だけである。なおこの時の大トリはもちろん美空ひばりだった。
*2 レコード大賞の会場から紅白歌合戦への移動が大慌てで行われ、森進一はズボンの前チャックが開いたまま歌ったというエピソードが残っている。なお、この時の紅組のトリは島倉千代子で、彼女は同名異曲の持ち歌「襟裳岬」を歌った。これはもちろんNHKの演出で、彼女は1961年の紅白でも「襟裳岬」を歌っている。
*3 この時の北海道旅行出発時の話は、惰学記数シリーズ「国道131号線」で書いたことがある。また、惰学記50音シリーズ3回「馬」には、この時、襟裳岬に行く途中立ち寄った新冠のハーバー牧場で、馬と取った記念写真が掲載されている。
*4 2〜3年前のお笑いブームの時代に、「地図ネタ」が得意技のピン芸人「バカリズム」が、北海道の地図を見せながら「持つとしたら、こうです」と渡島半島部分を握る絵が出てくるのは、お笑い好きの方なら覚えておられることと思う。
*5 「何もない」のに2度行ったのだから、私はこの地が結構気に入っている。


※「え」で曲名が始まる歌はあまり多くない。知られているのは以下の曲ぐらいではないか。
栄冠は君に輝く(伊藤久男)、エイトマン(克美茂)、駅、縁の糸(竹内まりや)、エメラルドの伝説(テンプターズ)、エリカの花散る時(西田佐知子)、江梨子(橋幸夫)、襟裳岬(島倉千代子)、エレクトリックおばあちゃん(スパイダーズ)、エロティカ・セブン(サザン・オールスターズ)、演歌チャンチャカチャン(平野雅昭)、縁切寺(グレープ)



<back>
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

 大橋建一へのご意見等は、こちらから。  E-Mail : info@ken-ohashi.jp url