フジ・関西テレビ系の看板番組が「小川宏ショー」や「夜のヒットスタジオ」という時代に人気だった子ども番組「ママとあそぼう!ピンポンパン」を覚えている大人は多いはずだ。1966年10月から82年3月末まで15年半も続いた朝の人気番組で、渡辺直子、石毛恭子、酒井ゆきえら「アナドル」の先駆のような女子アナがお姉さん役で出ていた。 |
この番組から誕生した最大のヒット曲が「ズンズンズンズン ずんずんずんずん ぴんぽんぱぽーん トラのプロレスラーは シマシマパンツ はいてもはいても すぐとれる がんばらなくちゃ がんばらなくちゃ 空手をビシビシ パンツをズルズル……」と続く阿久悠作詞、小林亜星作曲の「ピンポンパン体操」である。72年3月に体操のお兄さんだった金森勢の歌でコロムビアからリリースされた。阿久悠の著書「愛すべき名歌たち」(岩波新書)によれば、「同種のNHKのものが有名だったのだが、その人気をひっくりかえせるものという民放の注文を受けて」作詞したといい、思惑通り、子どもたちのハートをつかんで260万枚を売り上げたという。同年のレコード大賞童謡賞*1を受賞している。 |
さて、この歌詞に登場する「トラのプロレスラー」が、当時子どもたちに人気だった「タイガーマスク」を下敷きにしているのは言うまでもないだろう。「タイガーマスク」は68年から70年末まで少年漫画雑誌*2に連載された。原作は梶原一騎*3、作画は辻なおきで、テレビでは69年10月から71年9月末まで2年間、日テレ・よみうり系列で放映された。 |
テレビ化で、ちびっ子たちの「夢の大スター」となったタイガーマスクを、その余韻さめやらぬ時期にパロディー化して歌詞に入れたのが爆発的ヒットの秘密だったと言える。 |
昨年初めごろ施設などにタイガーマスクの「本名」伊達直人*4を名乗って寄付を届ける「タイガーマスク現象」が起きたが、当時のちびっ子の心には今もタイガーが健在らしい。 |
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*1 レコード大賞童謡賞は1959年の第1回から73年の第15回まであった賞だが、印象に残っている曲は、第5回「おもちゃのチャチャチャ」(63年)、第8回「オバケのQ太郎」(66年)、第12回「ムーミンのテーマ」(70年)と「ピンポンパン体操」ぐらいで、74年には賞が廃止となった。
*2 ウィキペディアによると、劇画の「タイガーマスク」は68年1月号から69年10月号まで「ぼくら」に、70年の前半は「週刊ぼくらマガジン」、同年後半は「週刊少年マガジン」に連載され、伊達直人が車にひかれそうになった子どもをかばって交通事故死したという設定で年末に終了した。
*3 梶原一騎(1936〜1987)は劇画原作者で代表作は「巨人の星」「あしたのジョー」「空手バカ一代」「赤き血のイレブン」「愛と誠」「柔道一直線」など。なお「あしたのジョー」は高森朝雄の筆名で書かれた。
*4 タイガーマスクの物語は、孤児院「ちびっ子ハウス」で育った伊達直人が、悪役レスラー養成機関「虎の穴」にスカウトされ、地獄のトレーニングを受けて、「タイガーマスク」としてプロレスデビュー。孤児たちに自分のようなつらい思いをさせないようにしたいと考え、収入の一部を孤児院へ寄付するようになった。後に出身施設である「ちびっこハウス」の窮状を知り、虎の穴への上納金まで寄付してしまったことから「裏切り者」とされ、虎の穴からタイガーを倒すための刺客が次々送られた。同じ裏切り者となるなら、せめて後輩となる「ちびっ子ハウス」の子供たちに恥じない戦いをしたいと、正統派スタイルへ転向し、苦闘しながら「ちびっ子ハウス」への援助を続けるというストーリーだ。
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