明日  I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
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市民が主役



惰学記




Kaimana Hila(カイマナ・ヒラ)

 私が子どものころは、敗戦直後の価値観混乱期で、それこそ何でもアメリカが一番という時代だった。映画でいえば西部劇は良いがチャンバラはダメ、偉人の伝記はリンカーンやワシントン、エジソンにフォスターといった具合で、日本人は野口英世ぐらいしか教わった覚えがない。ギリシャ神話は本で読んだが、日本の神話はほとんど知る機会がなく、音楽の世界も、もちろん歌謡曲は歌われ続けたが、カントリー&ウェスタン、ジャズ、ロックンロールなど米国直輸入の作品が人気で、多くの日本人歌手がカバーして歌っていた。
 ただし、同じ米国音楽でもハワイアンは戦前から日本に広く紹介され、盛んに歌われていた。バッキー白片、大橋節夫、ポス宮崎*1らが率いるハワイアンバンドは戦前から活躍しているし、灰田勝彦も元はハワイアン歌手*2だった。むしろ戦後にジャズやロックが盛んになるにつれて、メロディーが単調なハワイアンはあまり歌われなくなったようだ。
 それでもハワイアンは細々と?がんばり続けていた。夏になるとテレビの歌番組に、南かおる、エセル中田といった女性ハワイアン歌手が登場し、「アロハ・オエ」「タ・フ・ワ・フ・アイ」「南国の夜」「月の夜は」「珊瑚礁の彼方に」「真珠貝の歌」「小さな竹の橋」といったホンワカした曲が美女たちのフラダンスをバックに歌われていた。中でも私の印象に強く残るのが歌手では丸顔で目が大きい日野てる子、曲では「カイマナ・ヒラ」だった。
 日野てる子*3は歌謡曲「夏の日の想い出」でブレークしたが、1962年、17歳のころ全日本ハワイアンコンテストで優勝してバッキー白片に師事し、歌手になった経緯がある。ハワイアン出身を強調する長い髪にハイビスカスの花がトレードマークで、私も含め若い男性ファンが多かった。彼女の「カイマナ・ヒラ」は、他の女性歌手より低音で、裏声も低い感じがして独特の雰囲気があった。08年9月に肺がんで死去した時はショックだった。
 
*1 バッキー白片はアロハハワイアンズ、大橋節夫はハニーアイランダ―ズ、ポス宮崎はコニーアイランダーズというハワイアンバンドのリーダーだった。
*2 ハワイアン出身の歌手は多く、三島敏夫、和田弘とマヒナスターズ、もう少し後の世代では渚ゆう子らがハワイアン育ちである。
*3 日野てる子は私より1歳年長で松山市出身、65年から紅白歌合戦3回連続出場の後、作曲家一之瀬義孝氏と結婚、芸能界を離れたが、78年から歌手活動を再開、07年末まで歌い続けていた。

I waho makou i ka po nei A 'ike ika nani Kaimana Hira
Kaimanahira Kau mai i luna
   
I waho makou i Waikiki 'ea A 'ike ika nani papa he'e nalu
Papa he'e nalu He'ehe' malie
   
I waho makou i Kapiolani Paka A 'ike i ka nani lina poepoe
Lina poepoe Ho'oluhi kino
   
Ha'ina 'ia mai ana ka puana A 'ike i ka nani Kaimana Hira
Kaimana Hira Kau mai i luna

<曲名が「K」で始まる主な歌(外国曲は原則として省きます)>KANSHAして(SMAP)、KARA-KURI-DOLL(谷山浩子)、KATANA(アン・ルイス)、Keep Tryin'(宇多田ヒカル)、KILL(シブがき隊)、Kiss(倉木麻衣)、KISS(プリンセス・プリンセス)

ネットを検索していたら「熊っこおかんの時々お絵描き」というサイトに、日野てる子のすてきな似顔絵があったので、無断で拝借した


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