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 全く突然、父に襲いかかった「死」。父はその運命と十九日間、こん身の力を振りしぼって戦い続けた。その戦いは壮烈そのものだった。
 あの十九日間のことを思うと、いまだに胸の奥がキリッキリッと痛む。父のことがかわいそうでならない気持になるからだ。
 痛かっただろう。苦しかっただろう。そして何よりも生き続けたかっただろう。
 その無念さを思うと、たまらない。




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1>「腹痛で入院した。すぐ来るように」

 

 あの運命の九月十六日、私たちは朝九時すぎに、けたたましく鳴る電話のベルで起こされた。前日が深夜勤務で、その日も午後六時出勤の泊りだったから、その時はまだぐっすり睡眠中。寝ぼけまなこで出た妻の耳もとに、父が腹痛で入院した、すぐ来るように---という橋本さん(1)の声が響いた。
 腹痛、と聞いて私たちは不安な気持になった。五年前、私たちが結婚した直後の夏、父が盲腸手術をした時のことを思い出したからだ。
 あの時、私はまだ学校が卒業できず、東京にいた。簡単な盲腸のはずが、傷口がなかなか治らず、再手術したのだが、再手術の知らせを聞いた時、ものすごく不安な気持がしたものだった。その時は無事全快したが、後で聞いた医者の話では、かなり危なかったらしい。
 それがまた、腹痛で入院したという。入院するほどの腹痛って一体何だろうか……。私たちは"悪い予感"を抱きながら和歌山へ急いだ。
 お昼ごろ、病院に着いた。父の病室のまわりは、ひどくあわただしかった。隣の控室にいる人たちは、みんな目をまっ赤に泣きはらしていた。そして病室---。ベッドに父がいかにも苦しそうに横たわっている。口には酸素マスク、そして体中に点滴や何やの管が無数にとりつけられ、ベッドのまわりには様々な器具が林立。その"林"の中を何人もの医師と看護婦(2)が動き回っていた。
 「知事さん、建一さんたちが来ましたよ」
 その声で父は目を開いた。目のまわりにはドス黒いクマができて、やつれ切った感じ。ふだんの元気はつらつとした面影はどこにもなかった。
 「建一を呼んだんか」
 父は苦しい息の下で、ベッドの横につきそっている母に言った。か細い、やっとこさ出しているような声だが、自分の病状がどの程度なのか不安らしく、さぐりを入れるような鋭い目を母に向けた。目をはらし、必死に運命に耐えるように、ベッドのわきに腰かけていた母は、あわてて
 「いえ、ちょうど偶然来たんです」
 と"ウソ"の返事をした。
 これは大変なことだ---その時、私は覚悟を決めざるを得ないことを感じた。
 「それにしても、一体どうしてこんなことになったのだろう」
 そう思っている時に、お医者さんの一人が小声で私を呼び、別室へ案内した。その先生は
 「大変な重症です」
 と口を切り、次に、
 「解剖してみないとはっきりしたことは言えませんが」と、はっきり言った。
 ある程度の覚悟はできていたから、このことばにもさほどは驚かなかったが、それにしても医者が、患者が生きてるうちに解剖の話をするのだから、事態はよほど切迫しているのだろう。私はつとめて冷静になろうと思いながら、先生の説明を聞き、その時はじめて大動脈瘤が破裂したこと、血管から腹部に血がどんどん流れ出ていること、その血は腹の中にたまっていき、内臓を圧迫すること、そして出血が自然に止まる可能性はほとんどなく、手術をしたとしても、成功する確率はあまりないことなどを知らされた。

(1)父の腹心の秘書で当時秘書係長だった橋本進さん。後に1979年から2003年まで6期県議会議員を務めた
(2)今では看護師と呼ぶが、この文章では当時の呼び方に従って看護婦で統一している

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