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13>5000CC の交換輸血

 

 交換輸血---それは大変なことである。生まれたばかりの赤ちゃんが交換輸血したという話は時たま聞くが、大のおとながやった話はほとんど聞かない。5000CCもある血液をすっかり換えるのだから、血を集めるだけでも大変だ。しかし本当にありがたいことに県の職員の方々をはじめ、多くの県民の方々が自発的に献血を申し出て下さり、血は十分すぎるほど集まった。
 重態、危篤であることが夜九時半過ぎ正式に医師団から発表され、病院の廊下は、また多くの見舞客であふれた。十時には、その日ちょうど学会で大阪を訪れた橋本先生が、医大へかけつけて下さり、医師団に加わった。そして交換輸血が始まる。その最中、一度だけ病室をのぞいたが、それはものすごいものだった。一方で輸血を続けながら、医師が交代で注射針を父の体に差し込んで、古い血を抜いていくのである。
 「あの大手術に負けなかった心臓なのだから……」
 私たちは、そんなことを祈りの言葉のように何度も唱えながら、時を待った。医師団が、"ヤマ"と言っていた午前四時が過ぎた。学長(18)が部屋に入って来た。
「順調に進んでいます。心臓も、非常にしっかりしています。この分なら……」
と、表情を少しゆるめながら状況を説明してくれた。二十四日の明け方のことである。
 「よかった」
 私たちはホッと一息ついた。だが危篤状態での一進一退は、さらに一昼夜続く。翌朝、榊原先生もかけつけて下さり、医師団の慎重な協議がくり返された。血液交換で、一たんは尿素窒素量も下がったが、その日のお昼ごろには再び上がりはじめ、急を聞いて再び東京や九州などから飛んできた親戚、知人たちの間にも重苦しい空気が流れる。医師団は二度目の交換輸血に踏み切ったが、こんどは交換輸血もあまり効果を表わさないようだ。
 その日の夕方、医師団が協議を終え、院長が私たちの控室を訪れた。
 「このあとまた透析をします」
 私は、院長のことばを聞いて暗い気持になった。透析がだめで"最後の手段"に交換輸血をしたのに、効果が思わしくなく、また透析---サジを投げたみたいなものではないか、と思ったのだ。だが、院長はこのような説明をしてくれた。
 「これまでの透析は、腎臓をはじめとする内臓機能回復のための補助的手段として行われており、回復後も透析を続けなければならないようなことにならないように、という配慮から、いわばゆるやかに、時間もできるだけ短かく制限して行っていた。しかし、この事態ではそういう甘いことは言っていられない。腎臓回復にあまり過大な望みをかけずに、徹底的に透析してみる。透析に心臓が耐えられるか、という心配は依然としてあるが、これしかない」
というのが説明の趣旨だった。

(18)村野匡・県立医大学長
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