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14>執念で脱した危機

 

  手術の時もそうだったが、この二十三〜二十四の二日間も全くイチかバチかの瀬戸際だった。そして、それが乗り切れたのは、もちろん医師団の力によるところが大きいが、父自身の生への執念の強さがあったからにほかならない。父はいつも私に
 「お前は"なにくそ"という根性が足りない。男なら逆境に立った時に"ここで負けてなるものか"とはね返す気迫を持たなければ……」
 と説教していたし、父自身の生涯も、いくたびか逆境に立ちながら、それをはね返し、そのたびに大きく成長して、一つ一つ階段を上っていくというものだった。そして"その生き方"の集大成、総決算が、この闘病生活であった。二度目の最大の危機(小さな危機はもう何度あったかわからない)を、父は再び
 「負けてたまるか、なにくそっ」
という執念で、こん身の力をふりしぼって脱したのである。
 それは本当に奇跡的だった。透析の結果、尿素窒素量がどんどん下がったのだ。0.1g中に20rが尿素窒素の標準値だが、一時は130くらいまで上がっていた。それが透析で30近くまで下がったのである。
  緊張の連続だったそれまでの二日間に比べると、以後の何日間は、まるで天国のようであった。人工呼吸器も再び外されたし、一日に何度かは"お呼び"があって、不十分ながらも"対話"ができた。尿素窒素量は透析で完全にコントロールできるようになり、私たちの話題も、また父が退院してからのことに集中するようになった。だが、このころからは、みんな口に出しては言わないけれど
 「もう知事を続けるのは無理だろうな」というのが暗黙の了解事項みたいになっていて
 「ずい分長い間働きづめで、休日も休むことがなかったんだから、これからは少しゆっくりさせてやろう」
などと話していたものだった。
母はあい変らず病院に泊り込んでいたが、伯母と私たち夫婦は交代で家で寝ることになり、私は病院で泊る時も、寝る前に好きな酒をチビリチビリとやるようになっていた。
 会社へも久しぶりに顔を出し
「長い間ご迷惑をかけましたが、かなり病状も安定してきましたので、もうしばらくしたら出勤できると思います」
などとあいさつしたこともあった。事実、医師団の先生方も、そのころは
 「あんまり長い間欠勤されてもなにですから、そろそろ出社されてはどうですか」
と私にすすめていたほどだった。
 治療の方も、病状が安定しているので、かなりいろいろのことができるようになり、二十七日には、ブドウ糖の経口投与が手術後初めて行われた。同じころ抗生物質の投与量を減らしてみることも行われた。しかし、こうした試みは必ずしもうまくいかなかった。胃腸の機能は相変らず回復の兆がなく、ブドウ糖の経口投与はすぐ中断。抗生物質の方も、減らしたとたんに軽い肺炎症状が出たりしてまた元の投与量に戻された。そういうわけで、具体的な治療の成果はあまり上がらなかったが、この程度の"実験"が可能なほど、当時の病状は安定していたのである。医師団も私たちも、一日も早く胃腸の機能が回復してくれることだけを祈っていた。医師団の話では機能回復のメドは、大手術の場合約三週間といい、私たちは毎日毎日指折り数えて、三週間目までが無事過ぎるようにと祈り続けていた。

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