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16>情報が伝わってこない

 

 ちょうどそのころから、私たちのところへもたらされる情報量が極端に少なくなってきた。"お呼び"はほとんどなくなり、しびれを切らせてこちらから病室に行っても
 「今眠っていらっしゃいますから、あとでお呼びします」
 と看護婦さんに断られる。そしてそのまま"お呼び"の音沙汰がないうちに一日が終わってしまうことの連続だった。心臓の負担を軽くするために、できるだけ眠らせている、という説明だったが、母は
 「お父ちゃまは、きっと、こんな苦しい時に私たちが姿を見せないので、怒っているに違いない」
 と何度も不満そうに言った。肺炎の併発症の関係で、再び人工呼吸器がそのころから使われており、医師団は心配ないと言っているものの、私たちは何となく不安であった。院長も、二十六日ごろまでは、毎日午後八時ごろ控室に来てくれて、その日の状況を説明して下さったが、それ以後は  「とくに変化ありませんので…」
 とだけ言って引き揚げてしまうようになった。夜中に病室が騒がしいので、母がびっくりして目を覚まし、
 「何かあったのですか」
 と当直医に尋ねたが
 「何でもありません。心配ないです」
 という返事があるだけで、何も説明してくれないこともあった。
 しかし病状の方は確かに安定しているようであった。発病から二週間目の二十九日にはブドウ糖の経口投与が再開された。前回の投与は、一度に急激にやり過ぎたので、今度は徐々に少量ずつ行われた。吸収は相変らず悪く、モーレツな下痢が続いてはいたが、それでも胃腸を刺激していれば活動開始が促進できるという判断で、経口投与は続けられた。通すものも徐々に種類が増え、三十日にはおも湯やビタミン、一日には果汁も投与された。
 そのころから"長期戦"に備えての病室移転準備もはじまったし、私たちは、胃腸機能のことを不安には思いつつも、急な異変がおこるとは全く考えていなかった二日には、それまで十六日間病院に泊っていた母が、初めて公舎へ帰って寝ているほどで、私たちには、翌日が運命の日になるとは、全く思いもよらなかったのである。

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