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7>「お呼び」待つ日々

 

  翌朝、ひどく不愉快なことがあった。前夜とはうって変わった明るい表情で、いそいそと父の身のまわりの世話の準備をしていた時に、公舎で留守番をしていたお手伝いの女の子二人が血相変えて飛び込んできて、ものも言わずに泣きはじめた。何があったのかと思って聞いたら、朝方、ある新聞社の名前で公舎に
 「知事さんはけさお亡くなりになったそうで……」
と電話がかかったのだという。それで驚いて、大慌てで病院にかけつけたのだそうだ。私も新聞社に勤める身、まさか本当に新聞社がそんな非常識なことをするはずがないと思うので、おそらくはいたずらか、イヤガラセだろうが、それにしても心ない話である。
 しかし、後になって考えてみれば、この種のイヤガラセは、最後までこの電話一本だけだった。政治家が生死の境をさまよっている時には、イヤガラセ電話が何本もかかる場合も多いという。その点、父は本当に幸せであった。大多数の県民の皆さんが、本当に心から回復を願ってくれたのだから……。
 ともかく、その朝から看病生活が始まった。しかし、看病といっても、ずっと病室にいることはできない。抵抗力が弱っているから、ちょっと雑菌が入っただけでも熱を出すおそれがある。本来なら無菌室(11)に隔離しなければならないのだが、ちょうどふさがっていたので、やむを得ず今の病室にいるわけだ。われわれが始終いて、空気を汚すようなことはできないのである。だから、父が目を覚まし、私たちを呼んだ時に、せいぜい十分くらい顔を見るだけで、あとはその"お呼び"がいつあるかを一日中待つだけだった。父の顔を見て看病する時間よりは、お見舞に来て下さった方たちにお礼のあいさつをする時間の方がずっと多い日が続いた。
 控え室で"お呼び"を待つ間、私たちの話はいつも父の回復後のことであった。
 「これまでみたいに土曜も日曜も休まないようなことをしてたら体がもたない。無理は絶対にさせないようにしょう」
 「食事療法も厳しくやろう。酒やアブラ濃いものが大好きだけど、そういうものはもう食べさせられない」
 「とにかくやせさせなくては」
 「だけど激しい運動は無理だろうなあ。秋葉山へも行けないかなあ(12)
 精進料理みたいなものしか食べられないであろう父のことを思って、母は
 「もう一ぺん料理を勉強して、アブラ濃くないものをお父ちゃま(13)好みに作れるようになろう」
と言ったりもした。母も、私たちも、その頃は父の退院後ばかりを考えていた。

(11) ICU(集中治療室)と言うことばは当時まだ一般的ではなかった
(12)当時父は肥満体を少しでも改善しようと、晴れた日は知事公舎に近い秋葉山に毎日登っていた
(13)(子供時代に私が父をこう呼んでいたので)母はずっと家で父をこう読んでいた

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