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8>「どうなんだ」

 

  手術後の経過は順調そのものだった。人工呼吸器こそつけられていたが、意識は明瞭で、"お呼び"を聞いて私たちがいそいそとかけつけると、目を開いて母や私を見つめて手をしっかり握った。人工呼吸器も、完全に外されたのは手術から六日後の二十二日だったが、もう十八日ごろからは目を覚まして調子のいい時間は外されており、ある程度の意思疎通はできた。たとえば、手術の翌々日だったか、初めての"お呼び"があった時、父は母に自分の病状のことを
 「どうなんだ」
と尋ねた。手術が済んだのに、相変らず気分がすっきりしないので心配だったのだろう。
 「あれほどの大手術だったのだから、すぐに元気にはなりませんよ。先生も大丈夫と言ってるから、もう少しがんばって下さい」
 母はこう言って励ましたが、それを聞いた父は驚いたように
 「大手術か」
と、つぶやいた。大手術だったことをその時初めて知ったわけだが、父の反応は、明らかに意識が明確であることを示すものだった。その時、父は何事か考えるような目つきになり、井上さんや秘書課の人たちをそれから次々に呼んだ。今思えば何かの覚悟があったのかもしれない。串本沖のし尿投棄問題(14)が気がかりだったのだろう。井上公室長に
 「し尿のことをちゃんと……」
という意味のことを言ったし、白井さん(15)
 「日程がある。しっかりしろ」
とどなったこともあった。そのたびに私たちは仕事への執念と責任感を思い知らされ、涙ぐんだものだった。
 だが、そうはいっても、体中につけられた管は相変らずで、手術前よりむしろ増えたほど。術後には血を出すためのドレインと輸血用、手には点滴用、下腹部には大小便を出す二本の管が常についていたし、口と鼻にも栄養補給用とタン詰まりを防ぐための管が入っていた。この管は、声帯を圧迫しているので父は、しゃべりたくても思うように声が出ない。だから、病室へ呼ばれても、意思を通じさせるのはなかなか難しく、こちらが理解できるのは、父の言いたいことのうちほんのわずかだけ
 「飲みものですか」
 「どこかが痛いんですか」
 「手をさすりましょうか」
 「息苦しいんですか」
などと聞き返すが、違うことがほとんどらしく、父はまゆをしかめ、さかんに首を振ろうとする。そしてもう一度何か言ったり、身ぶり手ぶりで表現しようとするが、手も点滴しているから思うように動かない。しまいに根負けしたように目を閉じてしまい、こっちが勝手に想像したことをするのにまかせてしまうのだが、少しも満足そうな表情にはならない。そういうことの繰返しが続いた。
 筆談してみようと、紙を持たせてみたが、力が入らないので何を書いているのかわからない。それなら---と、言いたそうなことを大きな字で書いて、指で示させようともしたが、それもどうもうまくいかない。
 「読唇術の先生でも呼んでこようか」
などと真剣に考えたこともあったが、そのころは回復を信じて疑わなかったので
 「二、三日もすれば、はっきりしゃべれるだろう。もう少しのしんぼうだ」
と軽く考えていたのだった。あとで思えばそのころがまだ一番意思が通じやすかったくらいで、時間がたてばたつほど、何を訴えているのかわからなくなり、ほとんど植物人間のような状態になっていくのである。

(14) 当時、し尿の海洋投棄場所をめぐって、兵庫、奈良、和歌山、岡山、広島、香川、徳島の7県が串本のはるか沖の地点を決め、協定書に調印する運びとなっていたが、漁民らが反対していた
(15) 白井保世秘書課員、後に県福祉保健部長を務める
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