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私は戦後間もない昭和21(1946)年6月22日にいまの那智勝浦町で生まれました。母の実家が当時の下里町の旧家でしたので、東京から里帰りして長男を生んだわけです。名前の建一が建設の建に「ヨコイチ」なのは、大橋という姓につなげて「廃墟となった戦後の日本に、復興の大きな橋を一番に建てる」という願いを込めて父がつけたものです。
父は旧内務官僚でしたが、海軍の主計大尉で敗戦を迎え、マッカーサーに使われる官僚にはなりたくないと役所を辞め、出版業を営んでいました。その後事業が行き詰まり、当時の東京6区から総選挙に出て落ちたりということがあって、一時は一家離散状態になりまして、私が3歳のころ母と私は再び下里に移りました。その後父は、和歌山2区から代議士に当選した早川崇先生が大学や内務省で同期だった縁で当時の小野真次和歌山県知事に紹介され、24年の暮れに和歌山県庁に入れていただきました。この時に母と私は和歌山市にやって来たわけです。橋本進・元県会議員とは以来50年を超すお付き合いでして、ずっと言葉に尽くせないほどお世話になってまいりました。


クジ運は悪い方ですが、和歌山大学附属小学校の試験は運良く当たりを引き入学、6年後に附属中学に進学したわけですが、小学校に上がる前に母が病気をして半年余り医大病院に入院したことがありまして、その間私は東京の伯母の家に預けられました。
伯母には私よりほぼ一回り上の娘と息子がいまして、一人っ子だった私を弟のように可愛がってくれました。姉の方は原ひろ子という文化人類学者で、最近は女性学の権威となっていましてお茶の水女子大のジェンダー研究所長をしたあと、今は放送大学の教授をしています。弟は須江誠といいまして、NHKで教育や科学番組のプロデューサーをしたあと、NHKエンタプライズの役員をしていましたが、

12年前に病気で急死いたしました。実はこの2人がともに都立戸山高校から東大に進みましたので、私は中学時代から彼らにあこがれ、「東京の高校へ行き、出来れば東大に入りたい」という思いを強くしていました。
両親にそうした希望を述べましたところ、「本人がそうしたいのなら」といろいろ動いてくれまして、中学3年の3学期に東京に転校して、世田谷区北沢の伯母の家に再び預けられました。高校受験も首尾よくいきまして、あこがれの都立戸山高校に入ることが出来ました。当時の都立高は学校群制度前の全盛期で、戸山から東大へ毎年100人以上が合格し、うち1/4〜1/3が現役でした。私はそのころから英語の成績が悪くなりまして、総合成績も学内ではかなり低めのランクでしたが、40人以上が現役合格する中に紛れ込んでストレートで東大に合格しまして、1965年、父が県知事に当選する2年前に文科3類の学生となりました。
大学時代のことはあまり語りたくないのですが、サークル活動とか学友会というサークル連合のような仕事に熱中して、1年の後期ぐらいから授業に出なくなりました。もともと良くない英語の成績が最低ランクに下がり、これが響いて、父が知事選に挑戦して悪戦苦闘している時に留年が決まり、帰省しての第一声が「落ちたよ」だったので、「無神経なやつだ」と散々しかられました。事務所で少しだけ選挙運動の下働きをしましたが、あまりにも役に立たないので、事務長だった浜本先生に「東京へ帰れ」と言われまして、ほうほうの体で戻ったのを覚えています。したがって、父の知事初当選となった平越さんとの大激戦の末の18,000票差の「暁の万歳」は、私は見ることが出来ませんでした。


文学部国史学科に進んだのは68年の4月。すでに医学部紛争が始まっていまして、6月に医学部学生による安田講堂占拠、機動隊による排除があって紛争は一気に全学に広がりました。こんなにもいたのかと思うほどの数の学生が銀杏並木に集まる日が続き、夏休み直前には安田講堂の再占拠が全共闘の手で行われ、紛争は長期化の様相を深めていました。この夏休みに開かれた和歌山の赤門会(東大の同窓会)に父とともに出て、学生の立場から意見を述べさせてもらったことを覚えています。
紛争は10月ごろ、10学部すべてがストに入ったころをピークに、段々内部分裂が激しくなってきて一般学生が離れていくのですが、文学部はその後もストライキが続き、教室や研究室はバリケード封鎖状態でしたから、授業は全くありません。この1968年という年は大学紛争以外でも世情が騒然としていまして、ベトナム戦争が激しさを増し、佐世保で空母エンタープライズ寄航反対デモがあったり、東京都北区の王子米軍野戦病院建設反対デモや、成田空港建設をめぐる三里塚空港反対運動、さらに米軍燃料輸送をめぐる新宿での騒乱事件など、いわゆる過激派の運動が市民の支持をある程度集めて盛り上がっていた時代でした。金嬉老事件、東京・府中の3億円強奪、「プラハの春」がワルシャワ条約軍に押しつぶされるチェコ事件、ロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件、それから「和田移植」としてあとで問題になる札幌医大の日本初の心臓移植もこの年のことでした。私も、何度かデモに出かけたことを覚えています。
翌年の正月に安田講堂の2日間にわたる攻防戦があって、紛争は収束に向かいましたが、文学部で授業が再開されたのはもっと後だったような気がします。このころは虚脱感からか、授業が始まってからもあまり学校に行く気がせず、麻雀に凝ったり競馬に夢中になったり、アルバイトに精を出していたように覚えています。上智大生だった1歳下の妻と知り合ったのはその年の6月、たちまち意気投合して翌年、彼女の卒業を待って結婚しました。国史学科に進んでから2年間、ほとんど授業に出なかった私も、ようやく妻への責任感に目覚めて、翌年の卒業を目指して授業やゼミに通うようになり、古代史の卒論を書いたり、就職試験を受けたりの多忙な日々を過ごしました。


結婚後1年過ぎた71年の6月、ようやく単位が足りて、卒論もパスした私は、長かった6年余の大学生活に別れを告げて、翌7月に毎日新聞社に入社、奈良支局に配属されました。すでに25歳。女房持ちの駆け出し記者ということで、社の先輩や、警察の記者クラブで会う他社の記者たちからからかわれ、酔った各社の記者がつるんで夜中にストームをかけてきたりして、大慌てした覚えがあります。
入社半年を過ぎた72年3月、明日香村で高松塚の壁画古墳が発見され、奈良は大騒ぎになりました。一応古代史を専攻したことになっている私は、まだ記事も満足に書けないペーペーでしたが、取材関係の資料をまとめたり、先輩の歴史事典代わりに使われたりの忙しい日々を送りました。この時に壁画の模写をする地元出身の若い画家を取材せよと言われ、今やアフレスコ画の巨匠といわれる芸術院会員の絹谷幸二先生と奈良の旅館でお目にかかり(平山郁夫先生が後見人で付いておられました)記事にしたのが懐かしい思い出で、今も絹谷先生とは親交があります。
75年1月、7選に挑む奥田知事と社会党の衆院議員を辞めて挑んだ八木一男氏の一騎打ちとなった奈良県知事選の取材(八木陣営担当)をしている時に大阪本社転勤が決まりました。父は東京の政治部に行かせたかったようですが、私は支局時代にニュースを料理する『キャッチャー役』の整理部に興味を感じており、親に逆らって整理部に行かせてくださいと希望し、「奥田7選」が決まった直後にあわただしく異動しました。八木さんはこのあと間もなく亡くなりましたが、私はその後、機会を見つけてお参りに行ったりして、奥さんとは長い間親しくさせていただきました。


父が突然の病に倒れたのは大阪整理部に移って半年後の75年9月15日で、19日間の激しい闘病の末、父はあっけなく世を去りました。県葬を終えて職場に戻った私は悲しみを忘れるために仕事に打ち込みました。それまで住んでいた奈良から、和歌山と大阪の中間で、母のところにも行きやすい貝塚市の二色浜に引っ越しました。実は毎日新聞社は当時倒産の危機にあり、1000人余のリストラ、社員や関連企業などが再出資しての新会社設立、ボーナスが小切手払いでわずか12万円=それも3月支給、といった『絶体絶命のピンチ』をしのいで徐々に立ち直り始めたのは80年代に入ってからでした。
当時の私は、休みの日は母のところによく行きましたが、普段は仕事漬けで、夜勤が多い整理記者の常で、朝4時に帰宅するような日々を続けつつ徐々に力をつけ、選挙担当など責任のある仕事にもつくようになりました。ようやく子宝に恵まれたのは81年(昭和56年)で、実に結婚11年後、34歳まであと2カ月の時でした。和歌山の日赤病院で4月22日に娘が誕生しました。「一度出来たらどんどん生まれますよ」と皆さんに言われましたが、結局その後は全く気配なし。ほんとにワンチャンスの幸運でした。
81年秋から2年間は労働組合の本部役員を務め、東京と往復する日々を過ごしました。再建途上の社を浮上させなければならない難しい時期で、どうしたら読者が増やせるかとか、会社のシステムのどこに問題があるかなどといった経営者のようなことを真剣に討論する日々でした。この間に特に東京で社の幹部を含め社内外の多数の方と知り合うことができました。この経験を通じて東京で仕事がしたいという思いが強まり、組合を降りた後、何度も希望を出した結果、85年5月に東京本社に転勤できることになりました。このころの事件で、最も印象に残っているのはグリコ森永事件で、毎日のように「21面相」からの挑戦状が届き、マスコミも警察も振り回されました。挑戦状を記事にすべきか、センセーショナルに報道すればするほど犯人グループの思う壺じゃないか、でももし本当に毒入りの食べ物がばら撒かれているのに報道しないで犠牲者が出たらどうする、などといろいろ議論したのが思い出されます。


東京に移ってすぐの85年8月には、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落の大惨事がありました。520人を超す未曾有の犠牲者を出した史上最悪の航空機事故、当日はもちろん、その後連日総動員で紙面を作りました。そのなかで、夕刊当番の日に「最初に圧力隔壁が破れ、操縦不能に陥る事態を招いた」というスクープを締め切り時間をオーバーしながら無理矢理叩き込んだことをよく覚えています。
東京本社ではずっと政治、経済、外電など硬いニュースを扱う「硬派」といわれるポジションを担当しました。整理記者の仕事は各部が書いてきた原稿をこれは1面、これは2面、これは社会面というように振り分け、今日の1面トップはこれ、社会面はこのニュースで行くということを決めて、すべての記事に見出しを付け、各ページごとに記事量の過不足がなく、誤字脱字その他間違いのないように仕上げていく作業で、これを遠い地域に送る締め切りの早い早版から、埼玉、千葉、奈良、和歌山など近郊都市に送る近郊版、都内や大阪市内に届ける最終版まで毎日3〜4通り作らなければならないハードな仕事です。スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発とか、昨年の同時多発テロのような時は、事件発生前に締め切った早版の1面に載ったニュースが、最終版では跡形もなく消えてしまうこともあります。最終版が終わる午前2時ごろになると、各部のデスクや当日の整理部員が集まって、飲みながらの反省会が3時過ぎまで行われます。そんな場で政治部、経済部、外信部、社会部、写真部、科学部など各部のデスク、キャップクラスと議論したり、裏話を聞いたり。岩見隆夫さん、岸井成格さんらテレビで活躍している先輩たちともこうした席から親密になって、いろいろな場で飲んだり激論を交わしたことが何度もありました。
88年夏、ソウル五輪のさなかに昭和天皇の容態が悪くなり、数カ月にわたって新聞社は緊張した状態が続きました。担当の社会部はもちろん、整理本部や政治部、科学部など少しでも関係のある部はすべて臨戦態勢に入り、整理本部の皇室担当グループは交代で社内に泊り込むようになりました。危険な状態が伝えられると真夜中でも多数の記者が社内に群がって、かつて経験したことのない異様な雰囲気の日々が続きました。当時私は兵隊頭をしており、連日朝7時に出社して夕刊を作り、そのまま朝刊になだれ込んで早版が終わるまで作業し、午後11時ごろ帰る生活が続く中、天皇専従者を出して手薄になっている部員の出番のやりくりに頭を痛めていました。
明けて89年1月7日、昭和最後の日がやってきました。朝5時ごろ起こされ、呼び出された私はそのまま当日の夕刊制作の中心となる「本番席」に座り、歴史的な「天皇崩御」の紙面を作りました。お昼少し前に、「新元号が平成に決まった」という特ダネ情報が入ってきて、編集局は緊張に包まれました。99%間違いないと確認されていましたが、もし違っていたら大変なことになるということで、「新元号は平成」という大見出しを入れた新聞を作って輪転機にかけた状態で発表を待ちました。午後1時過ぎ、小渕さんが例の「平成」と書いた額を出したとき、「ウォー」という歓声が起きたのをよく覚えています。この年8月に私はデスクといわれる副部長職になり、紙面を作る役から、紙面づくりを仕切る役へと仕事の性質が変わりました。89年は激動の時代で、リクルート事件で竹下内閣が崩壊し、宇野内閣の下での参院選で自民党が歴史的大惨敗を喫する一方、海外ではイランのホメイニ師死去、中国の天安門事件、ゴルバチョフ改革に始まる東欧の民主化革命、ベルリンの壁崩壊といった大事件が立て続けに起きましたし、歌謡界の女王・美空ひばりが亡くなったのもこの年でした。こうした中身の濃い時代にデスクとして、ニュースをキャッチし、紙面を作ったことは私にとって大きな蓄積となりました。


翌年7月、「2年間行ってこい」といわれて名古屋の中部本社に転勤、ここでもデスクとして若い記者たちに新聞作りの基本を教える一方、仕事が終わると夜中でも飲みに行ってそのまま朝まで話をしたり歌ったりということがしばしばありました。このころ若手だった記者の中からワシントンやソウルの特派員が生まれ、整理を始め、運動部、社会部、学芸部などの花形ライターやデスクが育ったことは私の記者生活の中で一つの誇りと自負しています。単身赴任の2年を終え、東京に戻ったのは92年8月。最初は皇室担当で、皇太子さまと雅子さんのご婚約からご成婚までの特集紙面づくりにタッチし、その後選挙担当デスクとして、翌年7月の自民分裂・細川政権誕生となる総選挙、小選挙区比例代表制施工に伴う選挙報道・システムの大幅変更、95年の統一地方選と参院選を仕切り、96年4月に編集部長となってからも引き続き選挙を担当、初めて小選挙区比例代表制で実施された96年10月の総選挙も采配を振るいました。
97年4月から6月まで夕刊のコラム「憂楽帳」を週1回書かせてもらい、久々に「書く楽しみ」を味わっていた私に「7月から社長室に行くように」との内示がありました。私は「これで新聞記者生活ともお別れか」という感慨を抱きながら、連続幼児殺傷事件の少年Aが逮捕された日の当番を最後に新しい職場に移りました。毎日新聞社の社長室は、経営企画室のようなところで、当時のテーマは、21世紀に向けての「M−21」と名づけた長期経営計画の最終段階である第3期(99年〜2001年)計画作りでした。「印刷物としての今のような新聞が21世紀に生き残れるのか」「ニューメディアとの融合、総合情報産業への飛躍のための道筋は」などさまざまな議論を1年半近く積み重ね、翌年12月に3期計画は正式決定されました。その後、夕刊改革や新商品開発、カラーページ増強などのプロジェクトに関わり、2000年4月に社長室から制作技術局に移って、局次長兼工程センター室長に就任しました。紙面づくりが完了し、コンピュータにデータとして入っている紙面をフィルム化し、さらに刷版に成型して輪転機に掛け、1分間に約1000部という高速で印刷し、輸送先別に自動的に宛名をつけて仕分けしてトラックに載せ、所定の時間に販売店まで届けるという仕事の統括が日々の業務で、工場トラブル、トラックの事故、大雪や台風などなどあらゆる出来事の影響を受ける、なかなか大変な日々でした。今回のワールドカップサッカーも、連日午後8時半開始のゲームがあり、プロ野球ナイターより終わるのが遅いため、普通なら結果が入らない地域が出てくるのですが、何とかして出来るだけ広範囲に結果の入った新聞を送り、しかも販売店への新聞到着がそれほど遅くならないように工夫する仕事をやりました、幸いほぼ計画通りにことが運び、毎日新聞社での仕事に「有終の美」を飾ることができたのでほっとしました。
一人娘は幼いころから国際交流の意欲があり、中学時代にドイツ・ダルムシュタットの中高生との交換ホームステイを経験、高校2年から1年間アメリカに留学し、バージニア州サフォークにホームステイしました。今は大学の法学部の3年生で、東京で一人暮らしをしています。
妻は専業主婦ですが、かつて私が奈良支局にいたときは、奈良県の生活科学センターで消費生活コンサルタントをやっていました。東京では娘の関係から最近までCISV(Children's International Summer Villages=国際子ども村)という国際交流団体の仕事をボランティアでやっていました。

 

 

 

 


幼い日の思い出

 

 

 

 


家族と

 

 

 

 


附属中、東京同窓会

 

 

 

 


研修者を引率し首相官邸閣議控室で

 

 

 

 


ホームステイのドイツの方達と

 

 

 

 


編集局最後の日

 

 

 

 


有志による新聞社の送別会で

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