I will support Ohashi For tomorrow.
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談 /志談 市談 私談


父大橋正雄を今でも懐かしんでくださる方がたくさんおられることは、私にとって
も、母にとっても大変うれしいことであります。追悼録「樹影」を作ってくださった
方々を中心に、今も毎年「樹影の会」というのが催され、思い出話に花を咲かせてく
ださっておりますが、20年以上前に、その方々に求められて書いた父についての文
章が3つほど残っておりますので、それを「父との思い出」として、古い写真ととも
に掲載することにいたします。
 

1枚の写真

 サングラス、アロハ姿でリラックスした父と、麦わら帽をひざに乗せた母がシートに仲良く並んですわっている写真があります。昭和50年7月末、鳥羽へ家族とお手伝いさん、当時の秘書課の人たちが一緒に旅した時のスナップです。この写真を見ていると、あの旅のことが、いろいろ思い出されます。アロハシャツに合った新品のブレザーを、母が持って行き忘れ、父はブツクサいいながら、しかたなく背広の上着をひっかけたこと(父の格好が何となくアンバランスなのはそのせいです)、鳥羽のホテルで夕食を腹一杯食べたあと、中庭に野外焼き肉レストランがあるのを見た父が「あれも食べよう」と言い出し、胃袋の大きさに舌を巻いたことなど……。
 当時奈良に住んで大阪本社に通勤していた私は、なかなか父と一緒に旅行するチャンスはなく、この時も一泊した翌日は、近鉄の八木駅で父たちと別れて、直接奈良へ帰りました。
 父の「旅」は、精力的に続き、この後すぐ韓国へと出かけました。9月に韓国から帰ったあとは、電話で話す機会しかありませんでしたが、ある日「15日に大阪へ行くから、夕食でも一緒にしないか」と誘いがあったので、楽しみにしていました。
 ところが、勤務が急に変わり、15日は夜勤になってしまったので、夕食の計画はお流れ。そして、会うはずだったその日に、父は大阪で突然倒れ「永遠の旅"」出発してしまったのです。つい一ヵ月ちょっと前には、あんなに元気そうで、一緒に楽しい旅をしたというのに……。
 いまだに「鳥羽からの帰りに、せめて大阪まで一緒に行くんだったなあ」とか、「あの15日に夕食を一緒にしていたらなあ」といった思いが時々こみ上げてきますが、この写真を見ると、なおさら、そういった気持ちがつのってくる感じです。

(昭和54年1月)



父の手のひら

考えてみると、父は私に一度も「ああしなさい」とか、「こうしてはいけない」というようなことを言わなかった。
 私は、中三のはじめごろ、突然、東京の高校へ行きたいと言い出して父母を困らせた。だが、その時父は、私の決心が固いことを知ると、何も言わず、私が東京で生活しやすいような手配だけをしてくれた。
 その後も、考えてみれば私は、わがままなことばかり言っていたような気がする。伯母の家を出て下宿したいとか、父は法学部に行かせたいに決まっているのに、文V(文学部進学コース)を受験して入学してしまうとか、学生運動にかなり入り込んでしまって落第するとか、卒業もできないのに結婚すると言い出すとか……。
新聞社に入ってからも、父は何とか私を政治部にやりたかったらしいのに、私はその父の願いに全く耳を傾けず整理記者の道を歩んでしまった。しかし、そういう時、父は決して私をつかまえて叱ったり、指図をしたりしなかったばかりか、「こうした方がいいよ」という程度の"忠告"さえもほとんどしなかったような気がする。
 私が、どんなに父の気に入らないことを好き勝手にやっていても、父は東京に来るたびに呼び出してごちそうしてくれて、必ず小遣いもくれた。その小遣いをあてこんで、父と会う直前には持ち金わずか50円などということも多かったが、そうして会うときも、父は決して説教めいたことを言わなかった。
 こう書くと「なんだ、ずい分甘やかし放題だったんだな」というように受けとめられそうだが、私の感じでは、甘いというよりは、むしろテレ臭くていい出せなかったのではないかと思う。「きょうこそ説教してやろう」と思っていながら、私の顔を見ると、ついテレてしまって、結局言わずに「まあ一杯やろうか」ということになってしまったような気がするのである。
 しかし、ほとんど説教をされないということは、逆の意味で"しんどい"ことだ。口に出さなくても、自分の選択を父が快く思っているかどうかは、何となくわかるもので、その意向に反した行動をするときには、それなりの勇気と自信と覚悟と責任が必要だったからだ。
 いま考えてみると、私が好き勝手なことをしながらも、それほど道を誤まらずに、これまで何とか生きてこれたのは、父が、口うるさく説教などせず「そのうち、親の思っていることがわかるようになる」と信じていてくれたせいだと思う。
 自由に行動しているつもりで、結局はお釈迦様の手のひらの中を飛び回っていただけだった孫悟空が私のことのような気がするのだ。

(昭和56年5月)

父 エピソード

父と一緒に仕事をしていた人たちは、大変だっただろうと思う。父は、無口というわけではないが、自分がしようとしていること、したいことについてしらふの時はあまりしゃべらず、短い一言やちょっとした仕草で何をしたいと思っているかを相手に察してもらわないと機嫌が悪いところがあった。  私の母などは、どちらかというとあまり勘のいいほうではないので、父の言いたいことがなかなか分からず、しばしば「カンとろっ」(勘が鈍い、ということ)と、どなられているのを見た覚えがある。  役所では、家にいるとき以上に張りつめていただろうから、きっと多くの人が、「察しが悪くて」たびたび叱られていたに違いない。 逆に、父の言いたいことがよく分かる人のことは「あれは気が利く」と言って、とてもかわいがっていたように思う。  父は、好きな言葉として、よく色紙などに「照干一隅」と書いていたが、これがオモテの座右の銘とすれば、ウラの座右の銘は 「一を聞いて十を知れ」だったのではないだろうか。
              ※     ※    ※      
  父は、今でいうグルメ。食べることが何より好きだった。鍋料理や麺類が大好物で、肉も魚も大好き。かぼちゃ以外嫌いなものがなかった。私が小学校1、2年のころから寿司屋に家族でよく行ったし、中学、高校、大学時代も、てんぷら、中華、懐石、フランス料理等々いろんな所へ連れて行ってくれた。家でも、よくお客さんをした。昭和30年代には役所の人を20人以上呼んでドンチャン騒ぎをすることもしばしばあった。  ところで、この父は待たされたり並んだりするのが大嫌い。そしてまた、お腹がすくと機嫌が悪くなるという、困った食いしんぼうで、これがまた周囲の人を悩ませていたようだ。  県下を回る出張や、選挙の遊説の時、一番気を使ったのが「昼食をどうするか」だったという。お腹がすいてくると、みるみる顔つきが険しくなってくるから、ランチタイムが1時とか2時にずれ込むのはとんでもない話だし、予定していた店が満員で、順番待ちをしなければならなかったりすると、すぐ「ほかに行こう」と言い出す。だから周到に時間を決めて予約しておくわけだが、それでも午前の日程が予想外に時間を食ったりしてなかなか昼食にならないこともある。そういう時は、なるべく父に近づかず、父と目を合わせないようにしていたと聞いたことがある。
              ※     ※    ※  
  父は歌が好きだった。一杯入って、機嫌が良くなると、すぐ歌を唄いたがった。車で移動するときのラジオや、夜の盛り場の有線放送などで新しい歌を耳にして気に入ると、手帳に歌詞を書きとめ、時にはレコードを買って来て練習した。そして結婚披露宴の仲人をした時とか、お気にいりの飲み屋さんなんかでよく唄っていた。  決して上手な歌ではなかったが、ハートをこめて一生懸命に歌う「四季の歌」「新妻に捧げる歌」「あなたとともに」「星は何でも知っている」「北帰行」など、独特の味があって、なかなか素晴らしかった。  考えてみると、当時はまだカラオケが普及していない時代、そんな頃からあんなに歌好きだった父が、あと10年も長生きしていたらきっと家にカラオケスタジオを作っていたに違いない。
              ※     ※    ※
 父の死から十六年、私も四十半ばのおっさんになってしまった。食べることが大好きでお腹がすくと機嫌が悪くなるのも、へたな歌を歌うのが大好きなのも、やはり父に似たのだろう。

(平成3年5月)

昭和50年8月、鳥羽へ向かう近鉄特急車
内で。この1ヵ月後に父は突然、病に倒れた

結婚直後の昭和45年秋ごろ、東京で
親戚も集まっての会食の席で
(前列は母方の祖父母、
後列左から私、父、母、妻、
母の兄=みんな若いですね)

昭和45年11月、県民文化会館での文学
座公演の際の記念写真。左から仮谷元知事、
有吉佐和子さん、小川真由美さん、父、
北村和夫さん、中沢元副知事、杉村春子さん
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談 /志談 市談 私談

 大橋建一へのご意見等は、こちらから。  E-Mail : info@ken-ohashi.jp