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三十三回忌

 10月4日は和歌山県知事在職中に急死した父・大橋正雄の命日である。今年は三十三回忌に当たるということで、9月30日(日)に、橋本元県会議員ら知事在職当時の県秘書課メンバーらが事務方となり、「しのぶ会」が開催され、発起人の二階自民党総務会長、谷本、石田、世耕、鶴保の各国会議員をはじめ県内外から400人近い方の出席をいただいた。30年以上を経てなお大勢の方が父を懐かしんで下さっていることに心から感謝したい。
 1975(昭和50)年4月の知事選で3選を果たしたばかりだった父は、同年9月15日に大動脈瘤破裂で突然倒れ、19日間の闘病の末、10月4日朝死去した。まだ57歳であった。
 このホームページの「自分史」にも少し書いたが、戦後、東京で出版業に失敗した父は大学、旧内務省、海軍で一緒だった早川崇代議士(1916〜82)=旧和歌山2区、後に自治相、労相、厚相など歴任=の紹介で1949(昭和24)年暮れに31歳で県庁に奉職した。土木部監理課長を振り出しに、秘書課長、知事公室長、経済部長、出納長、副知事を歴任、1967(昭和42)年4月に、5期20年務めた小野真次前知事の後を受けて知事に当選した。
 こう書くといかにも順風満帆だったように見えるが、実際はそうではなかった。父のふるさとは熊本県であり、いわばヨソ者である。県庁にも知り合いがいたわけではなく、人に言えない苦労も多かったはずだ。奉職直後の時期には、ジェーン台風はじめ数々の台風が次々襲い、53年7月の「7.18水害」は県だけで死者・不明1047人、被災者25万人を出す惨事となった。災害復旧のため、大学や内務省時代の人脈を駆使して小野知事を支える一方で、職員の信頼を得るため、組合や野球・相撲などあらゆる集まりに顔を出し、交友関係を広げていった。  そんな生活だから、父と一緒に夕食を家で食べた記憶はほとんどなく、たまに早く帰る時は必ずお客さんが大勢来て、夜中までドンちゃん騒ぎとなった。土日も外出が多く、家には寝に帰るだけだったが、朝あいさつの練習をしていたのをなぜか思い出す。早くから和歌山県のために半生を捧げる決意を固めていたのだと思う。
 最初の知事選は大激戦で、わずか18,000票余りの差という辛勝だったが、就任後は、観光立県、スポーツ立県を目指して早くからまいていた種が実り、和歌山市の国体道路、紀の川大橋建設をはじめ県下の交通網整備を進め、国体を成功させ、亡くなる1年前には悲願だった高速道路の阪和自動車道・阪南〜海南間も開通した。高度成長時代だったとはいえ、県発展のため大きな構想を描き、それを次々実現させた手腕は素晴らしいと思う。
 ただ、今にして思えば、あの水軒浜を埋め立てて工場団地にしたことと、国体のための道路整備の一環として、和歌山市内の路面電車を廃線にしてしまったことは悔やまれる。父は時代の先を読める人だったが、「先の先」までは、さすがに見通せなかったようだ。


発起人あいさつあいさつ 家族お礼

壇上に並ぶ発起人の国会議員(左から)鶴保庸介参院議員、谷本龍哉衆院議員、石田真敏衆院議員、世耕弘成参院議員と代表としてあいさつをいただいた二階俊博自民党総務会長(右) =二階総務会長のご尊父は奇しくも父と全く同じ1975年10月4日に亡くなった




   父の遺影とともにお礼のあいさつをする私と妻、母、娘



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