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高松塚古墳

 1972年3月25日(土)、まだ私が毎日新聞に入って半年余り(卒業が遅れ、7月15日入社だった)の奈良支局駆け出し記者時代に話はさかのぼる。4月1日付の人事異動で支局長はじめ4人が支局を去ることになったため、その日近鉄奈良駅前の中華レストランで送別会が開かれていた。その席で酒を酌み交わしながら、橿原の春日神社宮司で橿原通信部の嘱託記者だった人が「飛鳥でエラいものが出たようでっせ」「色のついた壁画らしい」「人の絵が書いてあるそうや」と話していた場面を私は今でも時折思い出す。奈良県の橿原考古学研究所(末永雅雄所長=当時)が明日香村の依頼で発掘調査していた同村の高松塚古墳石室の四方と天井に極彩色の壁画が描かれていたことが21日の調査で分かり、送別会翌日の26日の日曜日に記者発表が行われる。大ニュースのようなので応援を派遣してほしいということで、事前説明の内容を支局長や次長らに報告していたのである。
 このホームページの「自分史」にも少し書いたが、それから1ヵ月半ほどは連日ハチの巣を突付いたような 大騒ぎで、大阪本社からも入れ替わり立ち代わり応援部隊が来るので、私を含め当時支局に3人いた
25歳の記者(3アンコと呼ばれれていた)は、もっぱら
食糧や水分の運搬などの雑用係として支局と現地の
間を車で行ったり来たりしていた。
 ただ、一応私は東大で古代史を専攻したことになっているので、考古学ファンだった当時の支局次長に可愛がってもらって、橿考研や奈良国立文化財研究所の人たちとも面識があり、おかげで、調査が終わって石室が埋め戻される直前に、後に和歌山市立博物館長も務めた橿考研の伊達宗泰研究員にこっそり手招きされ、石室の中を見ることができた。壁画の人物像は、思っていたより小さかったが、鮮やかな赤と黄色が今も忘れられない。
 保存技術が未熟だったのか、文化庁の保存処理がずさんだったのかは分からないが、壁画発見から35年を超す時が経過し、漆喰の壁面はカビなどで真っ黒に劣化して、壁画を覆い尽くそうとしている。極彩色壁画が危機に瀕していることは昨年2月に報じられ、産経新聞が、「飛鳥美人 “泣きぼくろ”」という名見出しをつけたことを前に書いたが、あれから1年余、このままではカビの増殖が防げないと判断した文化庁が、ついに最後の手段とも言うべき「高松塚古墳の解体」に踏み切り、先週からその作業が始まった。もちろん過去に例のない試みであり、成功するか失敗するかは本当のところ誰にも分からない。
 高松塚周辺は大勢の報道陣が押し寄せて、35年前を思い起こさせる大騒ぎだろうが、壁画発見の興奮とは異なり、今回は何か空しい。描かれてから1300年近く色あせずに眠っていた壁画が、発見からわずか35年で絶体絶命のピンチを迎えてしまうというのは、明らかに「人災」である。当時発掘に参加した研究者や学生は今どう思っているのだろう。

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