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徳川頼宣と望遠鏡

 前回の余談独談で、1608年にオランダで望遠鏡が発明され、それを聞いたガリレオが翌年自作したと書いた。では望遠鏡はいつ日本に伝わったのか。江戸時代の史料で徳川家康の駿府隠居後の動向を記した「駿府記」に、英国王ジェームス1世の使者ジョン・セーリスが1613年に駿府を訪れ、家康に望遠鏡を献上したとあるそうだ*。ガリレオからわずか4年後である。当時の日本には、想像以上に多数の西欧文明の産物が伝来していたようだ。
 名古屋の徳川美術館に、尾張徳川家の藩祖で家康の九男・徳川義直愛用の望遠鏡が収蔵されているが、これが家康に献上された望遠鏡かどうかは不明である。おそらく1613年以後、多数の望遠鏡が輸入されたのだろう。と考えるのは、家康の十男で紀州徳川家の藩祖頼宣と、家康の命でその家老になった安藤直次について、こんな話が残っている**からだ。
 頼宣は1600年の関ヶ原の戦いから2年後に生まれた「戦後派」で、苦労知らずのボンボンだった。家康庇護下で、望遠鏡など西欧の輸入品を愛用し、紀州入りしてからも、天守閣に登って望遠鏡で城下町を覗いては「家老の誰々がズル休みして植木の手入れをしている」「男と女が手を取り合って料理屋に入って行った」などと家来に言いふらすので、すぐにうわさが広まり、城下の人間は戦々恐々、町から笑い声が消えてしまった。困ったのはご意見番の安藤直次で、「このままでは殿様の評判がガタガタになる」と危ぶみ、ある日決心して、天守閣に登った頼宣を追いかけ、望遠鏡をもぎ取って2つにへし折ってしまった。「何をする」。怒る頼宣をにらみつけた安藤直次は「この望遠鏡で殿に見られていると思って、城下町の人間たちは今思うような暮らしもできないのです」と諌めたという話だ。
 頼宣は2歳上の義直とライバル関係**で、1603年に義直は甲府藩主、頼宣は2歳で水戸藩主に封じられた。1607年義直が8歳で当時建築中の名古屋城にいずれ入る含みで清州藩主となった後、頼宣は09年に駿府50万石を与えられた。ただし駿府には大御所家康がおり、義直も実際には駿府にいたので、この段階では2人の所領は名目的なものだった。
 家康死去(1616)後に義直は名古屋城に入ったが、将軍秀忠は二男忠長を駿府城主にするため1619年に頼宣に55万5,000石を与え紀州に移封した。豊臣家滅亡後も浪人たちの動きが不穏な大坂に「にらみを利かせる」という口実だったが、駿府から紀州への道中に名古屋城の威容を見た頼宣は、和歌山城の3層の天守閣が不満で、「大阪城が欲しかった」と思っていたようだ。安藤直次の諫言がなければ暴君になったかもしれない。直次が壊したため、残念ながら紀州には17世紀の望遠鏡は残っていないが、直次の功績は大きい。
 私の執務室からよく見える和歌山城天守閣の4隅に、100円で何分か景色が見える双眼鏡式の望遠鏡があるが、あれで部屋を覗かれると思うと、気持ちが良くないのは確かだ。

 *白山晰也「「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)による。「駿府記」は作者不詳だが、1611〜1615年の家康の行動を詳しく記した日記で、近世初期研究の基本資料とされる。
 **江戸時代中期の京都奉行所与力・神沢貞幹(1710〜95)の大随筆集「翁草」に載っているという。私は童門冬二「将の器 参謀の器」(青春出版社)でこの話を知った。なお、童門冬二氏は美濃部都政時代の東京都政策室長だった。
 ***1614〜15年の大阪の陣が頼宣の初陣だったが、軍功を挙げられず、悔し泣きし、慰めた本多正信に「わしに14歳の時が2度あるか」と怒り、それを聞いた家康が「覇気のあるやつだ」と喜んだという話は有名だが、義直に対するライバル心の表れとも見える。



市長執務室から望遠レンズで撮った和歌山城天守閣。 最上階の展望台四隅に有料の双眼鏡が置かれている


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