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市制120周年
 今年は和歌山市にとって市制施行120周年という大きな節目の年である。120年前の1889(明治22)年2月11日に明治憲法(正式には大日本帝国憲法)が発布され(施行されたのは翌90年11月29日で、同時に帝国議会もスタートした)ており、憲法発布を前提に国の制度整備がこの年まで急ピッチで進められた。地方制度に関しては88年4月に市制・町村制が公布され、翌年4月1日に全国のトップを切って、大阪、京都、神戸、横浜、金沢、仙台、広島、富山、鹿児島、和歌山、長崎、福岡、熊本、堺、新潟、福井、静岡、松江、盛岡、高知、弘前、赤間関(下関)、米沢、秋田、山形、高岡、津、姫路、佐賀、水戸、久留米の31市が市制を施行した。しかし、ここに至るまでには紆余曲折があった。
 明治維新後の10年ほどは国内情勢が不安定で、自由民権運動や不平士族の反乱が続発、1877(明治10)年の西南戦争まで続いた。政府は71年の廃藩置県以来の中央集権的地方政策を見直さざるを得なくなり、西南戦争の翌年、江戸時代の郡町村を基にした「郡区町村編制法」を制定した。旧制度に戻すことで地方の不満を和らげようとしたわけである。
 ただし、都市部の人口密集地は郡と切り離し、県直轄地的色彩の濃い「区」に再編され、官選の区長が配置された。人口上位の東京には15区、大阪に4区、京都にも2区が設けられ、他に名古屋、金沢、広島、和歌山*1、横浜、仙台、堺、福岡、熊本、神戸、新潟、岡山、長崎、函館、赤間関、札幌の16地区がそれぞれ1つの区となったのである。
 この「区」をベースに、その後町村合併で人口が増えた地区も加えて、人口25,000人以上の市街地を市とすることを決めたのが88年の市制・町村制公布である。和歌山市の場合、和歌山区とされた旧城下に近隣の宇治、鷺森両村と湊村の一部(現在の砂山・今福地区)を併合して4月に市となったが、これは書類上だけのことらしく、汀丁にあった和歌山区役所が市役所に名前を変えたのは7月5日で、市はこの日を開市記念日としている。
 当時の和歌山市の面積は5.5平方km、人口は50,613人で全国13位だった*2。現在の面積は210平方kmで当時の38倍以上に広がったが、人口は37万人だから、7倍程度にしか増えていない。現在の人口は全国784都市の53位で、当時より40も順位を落としている*3。1889年に51位以下だった都市で、和歌山市を抜いて30位以内に上がってきた市を見ると、札幌、北九州、浜松、静岡、岡山といった国土軸上の拠点地方都市と、川崎、さいたま、千葉、相模原、船橋、八王子、川口、松戸といった東京周辺の都市が並ぶ。
 特に東京周辺都市の人口の伸びが著しく、大きな流れとしては、この120年は人口の東京圏一極集中の歴史であったといっても過言ではなさそうだ。国土軸から外れた和歌山のような地方都市が次の120年をどう切り開き生き残っていくか。難しいテーマである。

*1*2 明治11年時点では和歌山市の人口は*1の並び順通り全国7位だったようだが、11年後の市制施行時には横浜、仙台、神戸、徳島、富山、鹿児島に抜かれ、13位に落ちた。しかし、10位の徳島は名古屋(4位)、岡山(18位)とともに、なぜか最初に市となった31市に入らなかった。このほか1871年の区のうち特別市となった東京と、地方制度の枠外となった北海道の函館、札幌は31市に入っていない。
*3 東京23区を独立の市と考えると、世田谷、練馬、大田、江戸川、足立、杉並、板橋、江東、葛飾の9区が和歌山市より人口が多く、全国806市区での和歌山市の順位は61位となる。


  市役所本庁舎には『市制120周年』の横断幕がかかっている
  (幕の上下階ベランダに見える木のようなものは
  太陽光をさえぎるために今年度から栽培を始めた
  ヘチマ、ゴーヤ、きゅうりのツルと葉っぱである)

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