I will support Ohashi For tomorrow.
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談



10年前

 今から10年前の1995年は、大きな節目の年だったような気がする。当時、私は毎日新聞東京本社編集局整理部門の編集部長をしていた。部長といっても4人のうちの1人で、ローテーションで夕刊当番、日勤、朝刊当番という勤務を繰り返す日々だった。朝刊番の日の帰宅は午前4時過ぎ、土日が当番だとその週は休みがない厳しい勤務である。
1995年は読売新聞が元日の1面トップで「山梨のオウム施設近くでサリン残留物を検出」というスクープ記事を掲載した。当時は松本サリン事件とオウム真理教の関連は全く知られておらず、大特ダネだったのは間違いない。1月5日には「埼玉の愛犬家連続殺人」と呼ばれた事件の被疑者が逮捕された。事件臭ふんぷんの異常な正月だったのである。
そして1月17日に阪神・淡路大震災が起きた。この日私は夕刊当番だった。紙面づくりの総指揮者である夕刊担当の編集局次長の下で、増ページとか、広告減段といった他の部局との折衝が必要な実務的な手配をしつつ、各ページの仕上がりを見て、「ここはこうした方がいい」とアドバイスし、記事や見出しにダブりがないか各面をチェックするという疲れる仕事だ。夕刊時間帯に判明した犠牲者数はまだ何百人だったが、当番の編集局次長が「(死者は)きっと何千人になる」とつぶやいた。私は「まさか」と思ったが、最終的に死者は6432人に達した。ベテラン記者の勘の鋭さに舌を巻いたのを覚えている。
 被害の大きさ、防災体制の不備、多くの避けられた悲劇など、教訓とすべきテーマが多岐にわたったので、震災後2ヵ月間テレビも新聞も震災報道一色の状態となったこと自体は当然だと思うが、テレビ報道のスタイルを変えたという意味では大きな節目だった。
そしてこの「集中豪雨的報道」の流れは、次に起きた3月20日朝の地下鉄サリン事件で無批判に定着してしまう。5500人がサリン中毒症状を起こし、死者12人を出した無差別テロ事件の当日も私は夕刊番で、第一報は「霞ヶ関駅で大勢の人が倒れている」だった。サリンかどうかも分からぬてんやわんやの夕刊発行となり、その日からは新聞もテレビもサリン事件一色となった。歯がゆかったのは、集中豪雨的報道にオウム真理教側がやたら登場し、勝手な理屈を並べて「自分たちは無実」と主張したことばかりが伝わり、なかなか「サリン事件=オウム真理教」というストレートな報道ができなかったことだ。
 警視庁がオウム捜索に踏み切ったのは、警察庁長官狙撃事件とオウム・村井秀雄幹部刺殺事件後の5月16日だった。その間、青島、ノック両知事誕生、米オクラホマ連邦ビル爆破、シラク仏大統領当選、テレサ・テン死去など後世に残る事件が多数あったのだが、リポーターや識者と称する人たちの地下鉄サリンとオウムに関するヒステリックだが大して内容のない「集中豪雨報道」の陰に隠れて、その時期のことだったという印象がない。
<back>
 HOME / ごあいさつ / 自分史(1946〜2002) / 父との別れ / 憂楽帳 / 惰学記 / 父の思い出 / 後援会 / 大きなうた / 余談独談

 大橋建一へのご意見等は、こちらから。  E-Mail : info@ken-ohashi.jp