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藤本英雄
 金本知憲選手の連続試合フルイニング出場という大記録が1492試合で途切れた直後なので、プロ野球の大記録について書く。戦中戦後期に主に巨人で活躍した藤本英雄投手のことである。藤本投手は1955年のシーズン終盤、10月11日に、当時和歌山市の向之芝にあった旧県営球場(1952〜63年)で開催された巨人−広島戦ダブルヘッダーの第2試合、7−0とリードした5回から登板、最後まで広島を無得点に抑えて通算200勝を達成し、それを最後に引退した。その日私は、大の巨人ファンだった父親*1に連れられて球場に行き、ネット裏特等席で歴史的場面を目撃したことを、07年5月に「紀州文化の会(大江寛事務局長)」が出した「あがらの和歌山*2〜歴史てほんまにおもしゃいで」という本に書いた。
 藤本英雄選手は戦時中投手兼打者として大活躍し、1943年には完封19試合、防御率0.73という記録を達成した。戦時中の記録とはいえ、おそらくこの記録は今後誰も破ることができないと思われる。戦後は日本で初めてスライダーを習得し、53年までに通算198勝、200勝は確実と見られていた。しかし、その後肩を痛め、54年はわずか1勝、55年は登板ゼロのままこの試合を迎えていた。あと1勝が遠くにかすんだまま引退を余儀なくされていた藤本投手に水原監督は200勝目をプレゼントして花道にしようと考えたのだ。藤本投手にとって向之芝の和歌山県営球場は、忘れられないスタジアムとなったはずである。
 日本プロ野球74年の歴史で通算200勝以上の投手は、日米通算で到達した野茂英雄を含め25人しかいない。新たな200勝投手*3誕生を伝える時は新聞にたいていの場合200勝投手一覧表が載るが、藤本投手は200勝ちょうどなので、名前が一番下に出て今も目立つ。
 その藤本投手にはもう一つ、記録表の一番上に名前が載る大記録がある。日本初のパーフェクトゲーム達成である。1950年6月28日、青森市営球場の西日本パイレーツ戦。この日登板予定の多田投手が腹痛で登板できず、先発のお鉢が藤本投手に回ってきた。このシーズン、梅雨を避ける意味で6月20日以来、セ・リーグの4チームが東北・北海道遠征に出ており、26日に札幌でのゲーム後、青函連絡船で青森にやって来たのである。投板がないと安心していた藤本投手は青函連絡船で徹夜麻雀し、寝耳に水の先発を言い渡された。
 立ち上がりは先頭打者に0-3となったり、2番、3番にヒット性の飛球を打たれるなど危うかったが、徐々に調子を上げ、ついに一人の走者も出さず、自身の136勝目を完全試合で飾ったのである。地方巡業の多い時代のせいもあるが、和歌山といい青森といい、藤本投手は地方球場に縁があったわけだ。ただ、残念なことに青森市営球場には取材カメラマンが誰も来ておらず、史上初のパーフェクトの写真は残っていない*4。藤本投手は引退後、日テレ解説者中上英雄として活躍し、76年に野球の殿堂入り。97年に78歳で死去した。


*1 ご存知かとは思うが私は幼い時からアンチ巨人で、阪神ファンの時期が長いが、父は昔から強いもの好きで、後に流行語となる「巨人、大鵬、卵焼き」の先駆者?だった。
*2 「あが」は「わが」がなまった和歌山弁で、私、自分という意味である。「あがらの和歌山」は「紀州文化の会」が「和歌山の文化の良いところを見つけ、記録し、発信したい」という思いで、毎年出版している本である。昨年は「あがらの和歌山365日」と題して、1月1日から12月31日まで、それぞれの日にまつわる和歌山の話を多くの方が寄稿し、今年は81歳の風俗研究家・山本潔さんが永年にわたって収集した写真、チケット、マッチその他和歌山の歴史資料になるもの何万点かのうち、1000点を厳選し、「あがらの和歌山〜おっちゃんの宝物」というタイトルで出版、4月17日に出版記念パーティーが開かれた。
*3 現在、現役投手で200勝に一番近いのは、和歌山出身の西口文也投手だが、2010年4月18日現在、 通算164勝で、「あと36勝」と、まだかなり道のりがある。
*4 以上の話は北原遼三郎「完全試合」(東京書籍=1994年刊)の「最後のスライダー 日本初の完全試合」を参考にした。

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