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六三園
 大正時代に大阪・堂島の米穀取引所で活躍した伝説の相場師がいた。和歌山県橋本出身の松井伊助(1865〜1931)である。和歌山の米相場師だった父に幼いころから鍛えられ、13歳で大阪に奉公に出た後、30歳になるかならないかで相場師として頭角を現した。米相場で大もうけして取引所の株を買い占め、北浜に進出、株式取引で巨万の富を築いた。
 米騒動が起きた1918(大正7)年、米の暴騰に手を焼いた寺内正毅内閣は、「今太閤」と呼ばれるほどになっていた松井に「米価を下げて社会不安をなくすために相場に水をかけてくれ。あんたしかおらん」とフィクサーを通じて頼み込んだ*1。巨額の損も覚悟で松井は引き受け、米を売って売って売りまくり、「世直し大明神」と庶民から称賛を浴びた。
 その松井伊助が63歳になった1928(昭和3)年に和歌山市に立てた別荘が「六三園」で、命名の理由は、年齢の他、松井伊助の北浜の取引所番号が63だとか、6と3はオイチョカブの「カブ」で縁起がいいなど諸説あるが、それらを合わせて名付けたようである。
 完成当初の敷地面積は6,300坪(約21,000u)と言われ、面積も「六三園」命名の由来だとされる。屋敷の玄関先には北浜での松井伊助の活躍を記念して、北浜に近い堺筋の難波橋の橋詰4カ所に松井が寄贈した天岡金一作のライオン像と同じものを1頭置いた。
 六三園は戦後、一時米軍に接収されたが、1952年に和歌山銀行(当時は和歌山相銀)のオーナーだった尾藤家が買収して高級日本料理屋を開いた。しかし、和歌山銀行は2006年に紀陽銀行に合併され、六三園も尾藤家の手を離れる。買収したのは、和歌山県上富田町出身で関西経済同友会の代表幹事も務めた「がんこフードサービス」の創業会長、小嶋淳司氏で、高級料理屋は、大衆路線の「がんこ六三園」に生まれ変わった。現在の敷地面積は2,000u*2だが、大座敷から広縁を通して見る回遊式庭園の見事さは変わらない。
 私は、現在の「がんこ六三園」はもちろん、かつての六三園にも会合などで何度か行ったことがある。昔は、なかなか庶民は行きにくい感じがあり、客も多くなかったが、「がんこ」になってからは、迷路のような屋敷の奥に新館も建って、雰囲気も明るくなった。何よりも、これまで庶民には手の届かない「高嶺の花」という感じだった料理屋が、親しみやすく、リーズナブルな価格の「安心して入れる店」になったことは喜ばしく、最近はいつ行っても大勢のお客でにぎわっており、昼食後に庭を見るのが楽しみという人も多い。
 小嶋淳司会長のように和歌山県出身で、大阪などで活躍中の実業家らのグループに「音無会」というのがあり、毎年秋に和歌山市周辺で例会が開かれる。見学会の後の食事には仁坂知事や私も毎回招かれ、様々な情報交換をさせていただいているが、最近は「がんこ六三園」が定番の会場となり、毎回飛び切りのごちそうをサービスしていただいている。

*1 大阪日日新聞HP『なにわ人物伝―光彩を放つ―』の「松井伊助」(2006/6/10=三善貞司)より。
*2 尾藤家が買収した時に一部が他に売却され、庭園と料理屋部分の所有権ががんこフードサービスに移った際に、尾藤家の居住部分などは売却されずに残ったようだ。


がんこ六三園の正面玄関(右)と、玄関手前左角に立つ天岡金一作のライオン像(左)(松井伊助が北浜近くの難波橋橋詰4カ所に寄贈したものとセットである)


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