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レコード大賞
 今年も押し詰まって紅白歌合戦やレコード大賞の季節になった。「紅白」は1960年代には70〜80%台の視聴率を記録し、「国民的行事」と言われたが、最近は40%前後まで落ちてきた。「レコ大」の方はもっと落ち込みが激しく、70年代に最高50.9%あったのが、05年には10.0%まで下がり、この年限りで大晦日から撤退*1、12月30日放送になった。
 しかし「引っ越し効果」も大したことはなく、06年以後の視聴率は17.0、16.8、16.9%とやや回復したものの、昨年はまた13.5%に落ちてしまった。今年の「レコ大」も、近藤真彦が最優秀歌唱賞に決まったとか、坂本冬美が特別賞*2という話題があり、大賞レースはAKB48や連覇を狙うEXILE、最優秀アルバム賞のいきものがかり、「トイレの神様」で紅白にも初出場する植村花菜、常連の氷川きよしらが競うが、もう一つ盛り上がりに欠ける。今から30年前、八代亜紀と五木ひろしがしのぎを削ったころの熱気は「いまいずこ」だ。
 1980年の第22回レコード大賞曲は八代亜紀の「雨の慕情」(阿久悠作詞、浜圭介作曲)だったが、大賞レースは「五八戦争」と呼ばれ、両者の所属事務所の総力戦となった。
 その前年は演歌復活の年と言われ、年間売り上げ上位に「夢追い酒」「おもいで酒」「みちづれ」「北国の春」*3などがランクされた。八代亜紀の代表曲の一つである「舟唄」は惜しくも大賞*4を逸し、80年4月にリベンジを期して「雨の慕情」を出したのである。
 同じ80年、もう一人大賞を狙って虎視眈々と準備していたのが五木ひろしである。五木はすでに73年の第15回レコード大賞を「夜空」で獲得していたが、その後も毎年のように大賞候補である「金賞」にノミネートされており、79年の「おまえとふたり」でも健闘していた。その五木が80年8月に満を持して出した曲が「ふたりの夜明け」だった。
 80年は、全体としてはニューミュージック優勢の年で、年間売り上げ上位は「ダンシング・オールナイト」「異邦人」「大都会」「ランナウェイ」「順子」*5などが占めたが、演歌では前年10月発売で、すでに79年の金賞を受賞してしまっている五木の「おまえとふたり」が7位に、ロスインディオス&シルヴィア「別れても好きな人」が8位に入っていた。
 当時はレコード大賞の権威が最も高かった時代で、大賞を受賞する歌手はそれなりの「格」が必要と考えられていたようだ。ニューミュージックのヒット曲を出した歌い手の多くがキャリア的には新人に近く、大賞歌手には早すぎる*6という認識が業界全体にあり、大賞レースは五木、八代の2人に絞られ、八代亜紀が勝った*7のである。「雨 雨降れ降れ もっと降れ」という歌詞に合わせて左腕を直角に曲げ、手のひらを上下させる八代の動作が話題を呼び、歌に勢いがついたのが勝因だろう。大賞受賞後、「紅白」に駆けつけ、大トリで歌った八代を、紅組の歌手全員が同じポーズで応援、受賞を祝ったのが印象に残る。



*1*2
*3 「夢追い酒」は渥美二郎、「おもいで酒」は小林幸子、「みちづれ」は牧村三枝子、「北国の春」はもちろん千昌夫の曲である。「北国の春」は77年にリリースされ、足掛け3年のロングセラーとなった。
*4 79年のレコード大賞はジュディ・オングの「魅せられて」で、日本歌謡大賞は西城秀樹の「YOUNG MAN(YMCA)」だった。皮肉なことに、演歌復活の年はポップス系の曲が大賞を獲得したわけである。
*5 「ダンシング・オールナイト」はもんた&ブラザーズ、「異邦人」は久保田早紀、「大都会」はクリスタル・キング、「ランナウェイ」はシャネルズ、「順子」は長渕剛の曲である。
*6 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が受賞した第13回(71年)までは余り「格」が意識されていなかったようだが、翌年の「喝采(ちあきなおみ)」以降、五木ひろし、森進一、布施明、都はるみ、沢田研二と大物歌手の受賞が続き、一世を風靡したピンクレディーを挟んでジュディ・オングが79年に受賞し、そのあと八代亜紀が獲得した。
*7 この時敗れた五木ひろしは84年に「長良川艶歌」で念願の2度目の受賞を果たした。
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