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漱石とエレベーター
 2月3日の毎日新聞夕刊(大阪)に100年前、和歌山市の和歌浦にあった屋外型エレベーターを描いた屏風絵が見つかったという記事が載った。1910(明治43)年10月から6年間、和歌浦の入り口、玉津嶋神社*1西側にある奠供山(てんぐさん=標高34m)に登るための屋外型エレベーターがあったことは知られているが、屏風絵の存在は初耳である。
 さて、日本初のエレベーターはその20年前の1890年に、「十二階」と通称された東京・浅草の凌雲閣に設置されたが、客の殺到で故障が多発、約半年で廃止になった。その後もビルには何基かが設置されたが、鉄塔の中を昇降機が上下する屋外型観光用エレベーターは和歌浦が初めてだった。そばにあった望海楼*2という旅館が客寄せに建てたものだ。
 話がややそれるが、海は奈良時代の都人のあこがれの地だった。聖武天皇は724年に即位してすぐ和歌の浦に行幸し、2週間も滞在した*3。この時奠供山に登り、「山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足る」と絶賛したという。
 さて、このエレベーターを有名にしたのは夏目漱石(1867〜1916)である。漱石が1912年12月6日から朝日新聞に連載した小説「行人」*4にこのエレベーターが登場するからである。1907年に朝日新聞に入社した漱石は、エレベーター完成の翌年夏に朝日新聞社が関西各地で講演会を催した時、講師として8月14日に望海楼に到着、エレベーターに乗った*5。「行人」には漱石自らの体験が主人公二郎の体験として以下のように記されている*6。
 手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレベーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂まで物好きな人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。(中略)二人は浴衣がけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方くらいのもので、中に五六人入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に欝陶しい感じを起した。「牢屋みたいだな」と兄が低い声でささやいた。「そうですね」と自分が答えた。「人間もこの通りだ」(中略)上りつめた頂点は、小さい石山のてっぺんであった。(中略)僅かな平地に掛茶屋があって、猿が1匹飼ってあった。
 漱石が「無風流」と書いたことから、このエレベーターに批判的だったと言われるが、よく読むと、「無風流には違ないが、新しさが自分の注意を惹いた」と、満更でもない雰囲気だ。二郎と兄は翌朝もこのエレベーターに乗っており、その場面の直後に紀三井寺に行き、兄が二郎に妻の貞操を試してくれと頼むという「行人」のクライマックスとも言える場面が展開される。実際には漱石はこのエレベーターを気に入っていたと私は思う。



*1 この神社は長歌、短歌の「和歌の神様」を祭っている。和歌の浦一帯は注3で触れる聖武天皇が景色に感銘を受け、「明光浦(あかのうら)」と名付けたと続日本紀に記されており、今も地元には「明光商店街」があるが、後には「和歌村」と呼ばれるようになった。和歌の神様である玉津嶋神社のある村ということでそう呼ばれたのだろう。なお、後に豊臣秀吉が紀州攻めの際にこの和歌村の景色を気に入り、紀州平定後、弟秀長に、雑賀の荘と呼ばれていた現在の和歌山市の中心部の「岡山」と呼ばれていた岩山に築城を命じた際、「名前は『和歌山』とせよ」と命じ、これが「和歌山」という地名の起源となったという。
*2 第一次世界大戦(1914〜18)に日本が参戦した時、軍用船建設に必要な鉄材調達のため、鉄骨塔は解体の憂き目となり、エレベーターも廃止された。望海楼もこの時に新和歌浦に移転したらしく、戦後までは新和歌浦一の老舗旅館として栄えた。しかし、観光地としての新和歌浦が斜陽となり、1983年に望海楼は廃業・撤去され、今は跡地に高級分譲マンションが建っている。
*3 聖武天皇の娘・孝謙天皇も和歌浦が気に入っていたようで、重祚(一度皇位を退いた天皇が再度皇位につくこと)して称徳天皇となった後の765年に7日間和歌の浦に滞在し、南浜に「望海楼」を営み、国を治める人が美しい自然を眺め、その神々を祭る儀式「望祀の礼」を行った。江戸時代の儒者・仁井田好古によればその儀式の場所も奠供山とされる。
*4 「行人」は翌年11月5日まで11ヵ月間連載されたが、途中漱石は胃潰瘍で倒れ、約5ヵ月の中断があった。
*5 和歌山県教育委員会作成のふるさと教育副読本「わかやま発見」にはその時の漱石の行動について以下のように記されている。
エレベーターに登り、奠供山からの景色を眺めた後、漱石は紀三井寺に向かい、高い石段に息を切らしながら夕暮れの和歌浦湾を眺めた。翌日は完成したばかりの新和歌浦遊園地を見学し、東照宮に立ち寄った後、片男波の砂浜で波と遊び、昼過ぎには現在の和歌山中央郵便局付近にあった当時の県議会議事堂(根来寺一乗閣として現存している)で講演を行った。
*6 漱石独特のあて字や一部の表現を読みやすいように直した。


「紀伊百景」という絵はがきに残っている和歌浦・奠供山のエレベーター
=和歌山県教育委員会の「ふるさと教育副読本 わかやま発見」より


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