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尾藤監督
 県立箕島高校野球部を甲子園で春3回、夏1回の優勝に導き、公立高で唯一春夏連覇の偉業を達成した尾藤公(ただし)元監督が3月6日に亡くなった。監督を退いたのは16年前の1995年のことだが、やはり尾藤監督と呼びたい。8日の通夜に私も参列したが、約1800人が全国各地から参列、式場は立錐の余地もなかった。心からご冥福を祈りたい。
 戦後20年余、和歌山県の高校野球はやや低迷状態*1だったが、尾藤監督は新風を吹き込んだ。1966年、当時無名だった自らの出身校、箕島高監督に就任、一緒に入部した東尾修投手*2を育て上げ、2年後に春の選抜初出場を果たし、ベスト4まで導いたのである。
 2年後の70年春には島本講平投手*3が大活躍して選抜初優勝、77年と79年にも選抜で優勝*4を果たし、その79年夏の選手権大会も制覇し、全国に箕島の名をとどろかせた。
 特に79年夏の3回戦での星稜(石川県)との延長18回の死闘は球史に残る熱戦*5で、今では熱闘の延長戦と言えば、ある年代以上の人は箕島―星稜戦を思い起こすはずである。
 このころ私は新聞社の大阪本社にいて、箕島―星稜戦の日は泊まり明けだったので、16時の試合開始前から先輩たちと一緒に堂島地下街のなじみの店で飲み始めたが、ゲームの成り行きが気になり、トイレに行くついでに近所の電気店のテレビを時々のぞき見た。
 試合は4回表と裏に星稜、箕島が点を取り合い、5回以後は箕島が押し気味だったが、1-1のまま延長戦となった。箕島は10回、11回のチャンスを生かせず、12回表にエラーで1点を失い、その裏も簡単に2死となった。しかし次の捕手・嶋田は監督に「ホームランを打っていいですか」と言って打席に向かい、言葉通りレフトに同点アーチをかけた。
 14回、15回とサヨナラ機を逸した箕島は16回表、石井が打たれ再び勝ち越しを許し、その裏再び2者凡退、6番森川が一塁線に打ち上げ、万事休すと思った瞬間、星稜の一塁手がファールグラウンドの人工芝に足を取られ転倒。命拾いの森川が左中間スタンドに起死回生の本塁打を放ち再び同点になった。そして18回、満塁のピンチをしのいだ箕島は、気落ちした星稜の堅田投手から2四球でチャンスをもらい、5番上野のタイムリーでサヨナラ勝ちしたのである。私も延長に入ってからは酒を飲むどころではなかった気がする。
 昨年9月23日、当時の箕島と星稜のメンバーが甲子園で再戦*6したが、この企画は多分、尾藤監督の病状を思った教え子たちが当時の星稜の監督らに働き掛けて実現したものだと思う。この時は尾藤監督も車いすで甲子園の土を踏んだが、今年1月23日、和歌山市で行われた東尾修元投手の野球殿堂入り祝賀会には出席できず*7、病状が心配されていた。
 尾藤監督は、私が椎間板ヘルニアの内視鏡手術を受けた県立医大の吉田宗人教授に腰痛手術を受けており、「ストップ腰痛」公開講座*8で同席したこともある腰痛仲間だ。合掌。
            ×        ×        ×
 諸般の事情で2週続けて余談独談となったが、書いているうちに東北地方で大きな地震が起きて、和歌山も大津波警報が出た。テレビで見る恐ろしいほどの津波被害の有様に言葉もない。犠牲者のご冥福を心から祈りたい。どうやら次回も余談独談となりそうだ。



*1 戦前は和歌山中学(現桐蔭高)・海草中学(現向陽高)が競い合って、和中は春1、夏2、向陽は夏2回優勝していた(夏は共に連覇だった)が、戦後は、全国的な私立高の台頭もあって相対的なレベルが下がり、箕島が出現するまでは、甲子園でそこそこ活躍はするが優勝には手が届かなかった。
*2 尾藤監督は現役時代捕手で、箕島高から近大に進学、その後地元に戻り金融機関に勤めていた。東尾投手は箕島高のある有田市に隣接する有田郡吉備町(現有田川町)出身で、吉備中学時代から評判の投手だった。本人は京都・平安高で野球を続けるつもりだったが、尾藤監督が「おれと一緒に箕島から甲子園に行こう」と説得、箕島高に進学した。甲子園ベスト4の看板を背負ってライオンズに入った。折しもプロ野球黒い霧事件で主力投手が抜けたため、ローテーションの一角に押し上げられて、入団2年目に11勝、以後19年間に通算251勝(247敗)して88年に引退。95年から7年間西武ライオンズの監督を務め、97,98年の2度リーグ優勝をしている。2010年に野球殿堂入りした。
*3 島本講平はこの活躍で甲子園のアイドルとなり、プロ野球入り、南海から近鉄に移籍後外野手として活躍した。
*4 77年は「定時制の星」と言われた東裕司投手、79年は石井竹志(現木村=元西武)―嶋田宗彦(元阪神)のバッテリーが大活躍した。なお、石井―嶋田のバッテリーは住友金属和歌山に入社し、82年の第53回都市対抗野球でも優勝した。
*5 それまで、高校野球の語り草だったのは1933年夏準決勝の中京商(現中京大中京)―明石戦で、延長25回(1-0で中京商)と言う不滅の記録を残しているが、ドラマ性で箕島―星稜がはるかに上回る。なお、1958年から延長18回(2001年以後は15回)で引き分け再試合になる規定が設けられ、引き分け再試合の名勝負としては1958年夏準々決勝の徳島商―魚津、69年夏の決勝戦、松山商―三沢がある。
*6 この再戦は星稜が17―13で「雪辱」、試合終了後両チームメンバーが車椅子の尾藤監督を囲んで記念撮影した。
*7 ビデオレターによる「参加」となった。
*8 09年9月26日、和歌山県立医大整形外科教室開講60周年記念行事として開かれた市民公開講座「ストップ腰痛」のパネリストとして尾藤監督と同席した。


09年9月26日に開かれた市民公開講座「ストップ腰痛」のシンポジウムにパネリストとして尾藤監督と同席した


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