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尾藤監督
*1 戦前は和歌山中学(現桐蔭高)・海草中学(現向陽高)が競い合って、和中は春1、夏2、向陽は夏2回優勝していた(夏は共に連覇だった)が、戦後は、全国的な私立高の台頭もあって相対的なレベルが下がり、箕島が出現するまでは、甲子園でそこそこ活躍はするが優勝には手が届かなかった。 *2 尾藤監督は現役時代捕手で、箕島高から近大に進学、その後地元に戻り金融機関に勤めていた。東尾投手は箕島高のある有田市に隣接する有田郡吉備町(現有田川町)出身で、吉備中学時代から評判の投手だった。本人は京都・平安高で野球を続けるつもりだったが、尾藤監督が「おれと一緒に箕島から甲子園に行こう」と説得、箕島高に進学した。甲子園ベスト4の看板を背負ってライオンズに入った。折しもプロ野球黒い霧事件で主力投手が抜けたため、ローテーションの一角に押し上げられて、入団2年目に11勝、以後19年間に通算251勝(247敗)して88年に引退。95年から7年間西武ライオンズの監督を務め、97,98年の2度リーグ優勝をしている。2010年に野球殿堂入りした。 *3 島本講平はこの活躍で甲子園のアイドルとなり、プロ野球入り、南海から近鉄に移籍後外野手として活躍した。 *4 77年は「定時制の星」と言われた東裕司投手、79年は石井竹志(現木村=元西武)―嶋田宗彦(元阪神)のバッテリーが大活躍した。なお、石井―嶋田のバッテリーは住友金属和歌山に入社し、82年の第53回都市対抗野球でも優勝した。 *5 それまで、高校野球の語り草だったのは1933年夏準決勝の中京商(現中京大中京)―明石戦で、延長25回(1-0で中京商)と言う不滅の記録を残しているが、ドラマ性で箕島―星稜がはるかに上回る。なお、1958年から延長18回(2001年以後は15回)で引き分け再試合になる規定が設けられ、引き分け再試合の名勝負としては1958年夏準々決勝の徳島商―魚津、69年夏の決勝戦、松山商―三沢がある。 *6 この再戦は星稜が17―13で「雪辱」、試合終了後両チームメンバーが車椅子の尾藤監督を囲んで記念撮影した。 *7 ビデオレターによる「参加」となった。 *8 09年9月26日、和歌山県立医大整形外科教室開講60周年記念行事として開かれた市民公開講座「ストップ腰痛」のパネリストとして尾藤監督と同席した。 | ||||||
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