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被災地に行きました
 6月1日、東日本大震災の被災地で、和歌山県と県内市町が継続して支援している岩手県山田町を視察に行った。早朝に家を出て、市長になって以後使ったことのなかった伊丹空港に行き*、JALでいわて花巻空港へ。空港からは借り上げタクシーで計4時間かけて現地入りした。空港は内陸部なので周辺は被害の痕跡もなく、のどかな田園風景で、被災地らしさは「災害派遣」の横断幕を付けた自衛隊の車とすれ違うことぐらいだった。
 しかし、タクシーで1時間余り走って、海に近い釜石市の中心部に入ったあたりから様相は一変、駅はブルーシートに覆われ、町のあちこちに瓦礫が山積みにされている。運転手さんによれば、これでも「最初のころに比べれば、ずいぶん片付いた」のだそうだ。
 釜石から北に方向を変え、町長が亡くなった大槌町に入ると、家が所々に残っているものの、1階部分が完全なものはほとんどない。大半は鉄筋の枠組みに支えられて外壁だけがある状態で、町が根こそぎ持って行かれたという感じだった。まだ町全体が茫然と立ちすくんでいる印象で、片付けもほとんど進んでおらず、どこもかしこも瓦礫の山であう。
 これが山田町に入ると、様子が少し変わる。堤防が倒れ、かなり山に近い場所まで津波に襲われて、住宅があったことを示す礎石だけが空しく並んでいるのは大槌町と同じだが、町の片付き具合が違う。町役場が高台にあって、震災直後から庁舎が機能している(といっても地下は津波の影響で被害を受け、配電盤が壊れて、5月下旬までエレベーターが動かないなど不自由があったそうだが)こともあり、全体に活気が感じられるのである。
 役場では超多忙の中、沼崎町長自ら応対してくれて、和歌山市はじめ県内市町と県の支援について丁重にお礼を述べていただき、第1次の復興プランがまとまったことも話しておられた。和歌山市としても、今後も復興にかかわる支援を長期的に行う旨伝えた。
 山田町では、学校の運動場の一部や高台の空き地を活用して次々仮設住宅の建設が進んでおり、この日、避難所から仮設住宅への最初の移転が開始された。避難所となっている山田高校、山田南小学校も見せてもらったが、山田高校では和歌山県から派遣された保健師さんが活躍中だった。あえて段ボールなどによる間仕切りはしない方針らしく、両避難所とも体育館の舞台上から全体が見渡せた。山田高校のグラウンドには自衛隊の救援部隊がテントを張り、お風呂も提供しており、他の避難所からバスで入りに来る被災者も多い。
 山田南小学校では、町職員の避難所リーダーが被災者の便を考えて、救援物資の配布方法を工夫したり、自炊設備を体育館裏に設けたり、創意ある取り組みをしていて頼もしさを感じさせた。町長が元気な山田町と、町長が亡くなり、役場が壊滅した大槌町では復興のスピードに大きな差が出そうで、改めてリーダーの責任の重さを痛感する視察だった。*



* 前にも書いたが、私は市長就任以来、関西空港の経営を危機に陥れる伊丹の大阪空港は使わないことを決意し、これまでは何とかそれを守ってきた。しかし今回東北の被災地に行くには、新幹線だけを使うと、どう工夫しても日程的に無理なので、やむなく「禁を破って」伊丹からJAL機を使った。関西空港から東北に行く便は今皆無であり、伊丹に行かざるを得ないのは誠に遺憾だが、関空と伊丹の経営統合ということもあり、一応の節目は越えたという気持ちもある。


6月1日、視察した岩手県山田町の防波堤はズタズタになって倒れていた


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