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三木町
 和歌山市の地名には、数字がつくものがかなりある。「四箇郷」と「六十谷」は「惰学記」で触れた*1が、城下町らしい「一番丁」から「十三番丁」までの「番丁」、「一筋目」から「六筋目」までの「筋目」という由緒ありげな町名以外にも、数字のつく地名は「一ノ橋」「二里ヶ浜」「小二里」「三木町」「三毛」「三田」「三沢町」「四季の郷」「五器屋」「五箇庄」「五箇所山」「六ヶ井」「七曲り」「七軒丁」「八軒家」「九家ノ丁」「十方院丁」などがある。
 このうち四季の郷*2は公園名、三田(さんた)は、竃山神社周辺に「田」のつく「和田」「坂田」「田尻」という3つの字があることから生まれたものだが、あとは古い地名だ。
 中でも特に私が気になっているのは市の中心部、和歌山城の一ノ橋(大手門跡)のすぐ東側の三木町という地名である。この辺りには昭和初期まで城の外堀である広瀬川があり、「三木橋」という橋が架かっていた。三木橋の東詰から、さらに東を流れる和歌川との間の町家があった一帯が三木町で、豊臣秀吉の指示で、弟秀長とその家老・桑山重晴らによって和歌山城が創建された1585(天正13)年当時から三木町と呼ばれていたらしい。
 50年以上前、香川県出身の三木武吉、後に総理となった徳島出身の三木武夫という政治家がいた*3ので、私は三木姓が四国に多いと思い込んでいて、三木町は四国東部から来た人が開いた町かと考えていたが、よく調べると、三木姓はむしろ兵庫県播磨地方から広がった姓らしい*4。そこで興味深い仮説を取り上げたい。羽柴秀吉は織田信長の命を受けて1580年に兵庫県三木市にあった三木城を兵糧攻めで落とし、播磨を平定、秀吉は姫路城を拠点に、毛利の勢力圏である備前・備中に攻め入るが、2年後の本能寺の変で信長が死んだあと、弟秀長に姫路城を譲り、秀長は三木を含む播磨一帯を治めるようになった。
 三木は戦国時代には瓦職人の町として知られ、江戸時代はのこぎりなど大工道具を主とする金物生産の町になった。1585年に紀州攻めを成功させた秀長と桑山重晴が、和歌山の城下町をつくるにあたって、播磨の三木から職人集団を連れてきたのではないか、その職人集団が三木町辺りに住んだのではないかというのが「三木町=三木ルーツ説」*5である。
 さて、三木町は茶道の表千家と縁が深い。紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣が、利休の曾孫で表千家の創始者である江岑宗左(こうしん・そうさ)を京から招き、三木町に下屋敷を置いて住まわせたのが始まりである。宗左がその屋敷で、杉、檜、樅の残材を使って作らせた棚を三木町棚といい、表千家の重要な茶道具の一つになっているので、三木町棚から三木町という町名が生まれたと勘違いしている人もいるようだ。今、その屋敷跡には「紀州藩表千家屋敷址」と記された石碑が建っている。また、現在の家元・而妙斎(じみょうさい=利休から数えて14代目)の二男・宣行氏は結婚後、三木町姓を名乗っている。



*1 惰学記数シリーズの4回が「四箇郷」、60回が「六十谷」だった。
*2 「四季の郷」は市内東部の東山東(ひがしさんどう)地区の丘陵に市が開いた25.5haの自然観察と緑化果樹育成のための公園名である。
*3 徳島には三木武夫・元首相以外に、三木申三という元知事がいたが、調べてみると「三木」は徳島県の姓ランクで20位くらい(全国では330位前後)であり、兵庫県、香川県でも50位前後である。多いのは多いが、香川県の大西、愛媛県の村上、宮崎県の黒木、青森県の工藤、三重県の伊藤の各姓のようにその県だけダントツという姓ではない。徳島県に多い姓の1位は西日本には珍しく「佐藤」である。(「全国と都道府県の苗字ランキングと分布 苗字舘」というホームページを参考にしました)
*4 「赤とんぼ」を作詞した詩人三木露風や終戦直後に獄死した「人生論ノート」の哲学者三木清は播州龍野出身である。
*5 三木ルーツ説は和歌山市民図書館事務長・恩賀進氏から聞いたものである。


三木町には表千家初代・江岑宗左以来の屋敷あとの碑が今も立っている

和歌山城東から三木町周辺の地図(Googleより)


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