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幻のグリーンパーク
 今回はタイムリーな話をあえて避け、今から60年も前の1951年にプロ野球公式戦を16試合行っただけで閉鎖の運命をたどった野球場が東京都武蔵野市にあったという話を書く。
 日本のプロ野球は1950年のシーズンからセパ両リーグに分かれ、セの巨人、国鉄、パの毎日、東急、大映*1の5球団が東京に本拠地を置いた。しかし当時、神宮球場は占領軍に接収され、川崎球場や駒沢球場*2は未完成だったため、東京周辺は球場不足で、後楽園球場に両リーグの公式戦が集中していた。これを解消するため武蔵野市の旧中島飛行機武蔵製作所跡に、国鉄スワローズの本拠地とする含みでグリーンパーク球場が翌年建設された。
 両翼91.4m、中堅128m、収容能力5万人以上、8基の照明灯を備えた球場は今でも我が国トップクラスの広さで、中央線三鷹駅西から球場近くの「武蔵野競技場前」駅まで伸びる国鉄の支線も敷かれ、ゲーム開催時には東京駅から直通電車も走った。今の西武ドームよりずっと交通便利だったのだが、当時の江戸っ子は、三鷹は都心からひどく遠いという感覚だったのと、2年足らず前に起きた三鷹事件という無人電車暴走*3の記憶が生々しかったためもあってか、新球場の人気は盛り上がらず、しかも、突貫工事のため、芝生も十分育たないままのオープンとなり、5月5日に行われたこけら落としの変則ダブルヘッダー国鉄―名古屋、巨人―名古屋戦は土ぼこりがひどく、選手や観客に悪印象を残したらしい。5月中に公式戦があと7試合行われたようだが、常に突風に悩まされ、やむなく球場側は6月予定の試合をキャンセルし、グラウンドと周辺整備をやり直すことにした。
 整備完了後の7月14日から試合再開のはずが、梅雨明け前の雨で2日続けて中止と、ツキに見放された形で、結局16日に2試合、8月に計5試合行っただけでシーズンが終わり、運営主体の(株)東京グリーンパーク*4が倒産、以後同球場で試合が行われることはなかった。このため、せっかくの中央線支線も翌年からは休止、59年に正式廃線となった。
 私の祖父母の家が武蔵野市吉祥寺北町にあり、グリーンパーク球場のすぐ近くだった。小学校入学前から何度も祖父母の家に行ったが、その時、すでに廃屋となっていた球場の立派なスコアボードと照明灯がよく見えたのを記憶している。小学3年のころ、当時70歳近かった祖父と一緒に、草ぼうぼうになった中央線支線の線路*5を、三鷹の分岐点から競技場前駅まで歩いたことがある。全長3.2km、雑草が子どもの胸ぐらいまで生い茂っており、競技場前駅にたどり着いた時は手も足も傷だらけだったのを今も覚えている。
 球場は1956年に解体され、跡地は日本住宅公団(現UR都市機構)が買収、57年にわが国初の大規模公団団地となった。したがってこの地は「団地」という言葉の発祥の地でもある。今その付近は緑町*6と呼ばれ、わずかにグリーンパークの名残を残している。



<佐野正幸「昭和プロ野球を彩った球場物語」(宝島社)とインターネット百科事典ウィキペディアの記述を参考にしました>
*1 国鉄は現ヤクルト、東急は現日本ハム、毎日と大映はその後合併し、大毎、東京と名を変え、1969年にロッテとなった。なお、話の後段に出てくる「名古屋」は現在の中日ドラゴンズである。
*2 川崎球場は1952年完成で、この年神宮球場の接収も解除された。東京オリンピックのため廃止された駒沢球場は1954年開設である。
*3 1949年7月15日、中央線三鷹駅西側の車庫から無人電車が突然暴走し、死者6人、重軽傷者10人を超す惨事となった。この直前の7月6日に当時の国鉄の下山総裁が轢死体で発見され(下山事件)、三鷹事件の2日後には福島県の東北線松川駅付近で列車が脱線、乗務員3人が死亡、多数の負傷者が出た(松川事件)。警察当局は国鉄の大規模人員整理に反対する組合活動家の犯行と見て捜査し、三鷹事件で10人、松川事件で20人を逮捕した(下山事件は自他殺不明のまま捜査終結)が、裁判の結果、松川事件は全員無罪、三鷹事件も1人を除き無罪が確定し、有罪とされた1人も最後まで無実を訴え獄死した。終戦直後の混乱期に起き、いまだに真相の分からない事件である。
*4 ウィキペディアによれば、社長は後の東海大学総長・松前重義で、役員に武者小路実篤、徳川夢声、近衛秀麿らが名を連ねていた。
*5 JR三鷹駅北口から線路沿いに400mほどに市へ行くと、北東に向かう道路がある。これが支線の線路跡で、この道をたどっていくとグリーンパーク跡に出る。
*6 この公団住宅群は「武蔵野緑町団地」と呼ばれた。93年に老朽化による建て替えが行われ、「緑町パークタウン」という名前になった。緑町は武蔵野市の最北で、練馬区や西東京市と接している。昔は武蔵野市西窪の一部だったが、公団住宅建設により緑町となった。なお、現在の住居表示には西久保という地名があるが、旧西窪の南側が西久保になった。


Googleの地図データを基に作成しました


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