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流線型
 最近の新幹線車両は流線型の極致のような超ロングノーズの先頭車両が普通だ。「のぞみ」などに使われている700系は「カモノハシ」と言われ、博多〜鹿児島中央間が全通した九州新幹線の「みずほ」などに使われるN700系は猟犬ドーベルマンの顔を連想させる。
 電車の速度アップを目指して空気抵抗の少ない流線型を取り入れるのは今では常識といえるが、実は流線型ブームは今に始まったことではない。第2次世界大戦前の1930年代に、空気抵抗の少ない高速機関車として、1934年に米ペンシルバニア鉄道が流線型のGG1型電気機関車を開発、これに刺激されて世界の鉄道で流線型ブームが起きた。いわば第1次流線型流行期である。今も昔も流行というと飛びつくのが日本人で、わが国でも当時の鉄道省が流線型化を目指した。蒸気機関車(SL)ではC55型の改造型として1936(昭和11)年に21両、電気機関車(EL)ではEF55型が同じ年に3両、流線型で製造された。
 SLもELも番号が同じ「55」なのは偶然のようだが*1、C55はその前年の35年に19両製造された流線型ではない普通のC55の改良版で、21両が流線型のカバーをまとって登場し、全国各地に分散配置され、主に急行列車を牽引、名古屋機関区では臨時特急「燕」も引っ張った。わが国の機関車製造技術の高さを世界にアピールするのが最大の狙いだったという*2。流線型C55は様々な部分がカバーに覆われて整備点検が難しく、運転席に熱がこもり、炭水車は故障しやすいなどの欠陥があって、機関士には評判が悪かったようだが、カッコいい流線型SLということで鉄道ファンには戦後も根強い人気があった。
 ELのEF55は、電気機関車には珍しく前後が対称でなく、前部だけが流線型だった*3。戦前は特急用として「つばめ」「富士」を牽引したが、最高時速95q/h程度では流線型による空気抵抗削減効果もわずかで*4、方向転換のために転車台を使わなければならないなど不便が多かったため3両だけで製造打ち切りとなった。しかし、ファンの人気はずっと高く、戦後も東海道線で1952年まで活躍、高崎線に移ってからも62年まで走り続けた。
 その後2-3号機は廃車となったが、静態保存されていた1号機は85年に高崎第2機関区で実施された機関車展示会に構内運転が可能な状態に整備されて*5登場、ファンたち熱烈歓迎され、「ムーミン」の愛称がついた。この人気を見た国鉄は86年にEF55を動態復元し、以後イベント列車としてJR東日本に移行後も活躍、06年3〜4月には東京・神田にあった交通博物館閉館イベント時に特別展示され、同年12月に「EF55形誕生70周年記念号」が上野〜高崎間で運転された。しかし、部品の確保も困難を極めたため、引退することになり、08年末から09年1月にかけて上野〜横川間の信越本線で「さよなら運転」が何度か行われ、1月18日の「快速さよならEF55横川号」が正真正銘のラスト運転となった。
 
*1 戦前のことなので、スピード感を「GO!GO」に引っ掛けたとも思えない。ELの50〜60番台は直流電気機関車で最高速度85km/h以上であることを示し、SLの50番台以上は石炭と水を積む炭水車を連結するテンダー式機関車を示すそうだ。
*2 このあたりの記述はウィキペディアに全面的に依拠している。
*3 当時新技術だった電気溶接を全面的に導入し、連結器も新幹線のような格納式を採用したが、後部の運転台は構内運転用の補助的なものしかなく、最初は照明もなかった。
*4 この点はSLのC55も同じである。
*5 ウィキペディアによれば高崎第2機関区の有志が塗装も含め整備したという。
 
さいたま市にある鉄道博物館に展示されているムーミンの愛称で知られるEF55型電気機関車(手前)とC55型蒸気機関車の模型。今の新幹線とは大違いの、ささやかな流線型だ





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