明日  I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
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市民が主役



余談独談




シーサイド・フォークジャンボリー

 大学紛争が各地で広がった昭和40年代(1965〜74)は、フォークソングが若者に広く支持された時代でもあった。このころ活躍した杉田二郎*1、ばんばひろふみ*2両大御所が中心となり、毎回ゲストが参加し、地元の歌手たちも加わって和歌山市のマリーナシティ特設ステージで開催される催しがシーサイド・フォークジャンボリーである。3回目となる今年は5月20日に開かれた。往年の歌声を聴かせてくれるゲストは「スローなブギにしてくれ」の南佳孝*3、和歌山市出身の作詞家・及川眠子の友人で私も面識がある庄野真代、そして「赤い鳥」「ハイ・ファイ・セット」のボーカルだった山本潤子の3人であった。
 その山本潤子が所属した「赤い鳥」は1969年に結成され、同年11月の第3回ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト*4で「竹田の子守唄」を歌い、グランプリ。翌年、合歓ポピュラーソング・コンテスト*5で新人奨励賞を受賞した曲が「翼をください」だった。
 71年2月に東芝から「竹田の子守唄」と「翼をください」がカプリングで発売され、100万枚を超す大ヒットとなり、「翼を〜」の評価は急上昇。74年の教育芸術社を皮切りに多くの教科書に取り上げられ*6、合唱曲として浸透、06年には文化庁とPTA全国協議会の「日本の歌百選」にも選ばれた。多くの人が一度は口ずさむ和製フォークの名曲である。
 「赤い鳥」は後藤悦治郎、平山泰代、山本俊彦、新居(山本)潤子、大川茂の5人が基本メンバー*7だったが、方向性をめぐる対立で74年9月解散、後藤と平山(同年2月結婚)は紙ふうせん*8、山本夫妻(73年4月結婚)と大川がハイ・ファイ・セットを結成した。
 ハイ・ファイ・セットは主にユーミンのカバーでヒットを出した*9が、77年の7枚目のシングルはブラジルのモーリス・アルバートの曲をカバーした「Feelings *10」で、これがオリコン2位まで上昇、年間10位の大ヒットとなって同年の紅白歌合戦に出場した*11。
 話は「翼をください」に戻る。赤い鳥解散後、山本潤子は「翼を〜」を歌わなかったが、94年にソロとなった後、ある日自分の娘が「学校で習ってきた」とリコーダーで「翼を〜」を演奏するのを聞いて気持ちが吹っ切れ、コンサートで「翼をください」を歌ったという。
 楽天ブログ「自由のひろば」の09年3月22日付「イチオシ日記」には、「すると大合唱になったんですよ。鳥肌がブワァ−って立って、すごい曲だなと思って自分自身がビックリするぐらいみんな歌ってくれたんです」と、その時の山本潤子の感想が引用されている。
 実は私も5月20日のフォークジャンボリーを見に行った。庄野真代は期待通りの見事な歌唱で、私はCDを2枚買ってしまったが、山本潤子はハイ・ファイ・セット時代の曲を歌ったが、残念なことに声の調子が悪かった。フィナーレは私の予想通り、出演者全員での「翼をください」。もちろん会場も総立ちで、全員が声を張り上げ、大いに盛り上がった。
 
*1 杉田二郎は私と同年代。はしだのりひことシューベルツ時代に「風」など、ジローズとして「戦争を知らない子どもたち」、ソロでも「男どうし」など数々のヒットを出した。シーサイド・フォークジャンボリーの第1回は2010年のちょうど今ごろ、7月24日に開催された。猛暑で、出演者も観客も皆汗だくになり、翌年から5月開催に変更された。杉田二郎とばんばひろふみのオープニングトークでは1回目の暑さの話が必ず出てくる。
*2 ばんばひろふみは杉田より3学年下だが、同じ立命館出身である。バンバンとして「『いちご白書』をもう一度」(B面が後にハイ・ファイ・セットがカバーしてヒットした「冷たい雨」で、いずれもユーミンの作品)、ソロで「SACHIKO」というヒット曲がある。平山三紀の元夫。
*3 ばんばと同世代の南佳孝は東京出身で、「スローな〜」のほかに郷ひろみが「セクシー・ユー」というタイトルでカバーした「モンロー・ウォーク」がヒット曲だ。
*4 ヤマハは当時若手ミュージシャン発掘に力を入れており、67年からこのライトミュージック・コンテストを開催、69年からは次の注で触れる合歓ポピュラーソング・コンテストも始めた。ライトミュージック・コンテストは5回で終了しているが、ウィキペディアによると、「赤い鳥」がグランプリとなった第3回にはオフコース、チューリップも出場、チューリップの財津和夫はオフコースを聞いて「負けた」と思い、オフコースの小田和正は「赤い鳥」を聞いて「負けた」と思ったというエピソードがあるそうだ。
*5 三重県志摩市(当時は浜島町)の合歓の郷はかつてヤマハが開発したリゾート地で、これを盛り上げるイベントとして69年に作曲コンクールが始まり、72年から「ポピュラーソング・コンテスト(いわゆるポプコン)」となった。ポプコンの回数は69年の作曲コンクールを第1回と数えている。ポプコンは開始当初は最初は世界音楽祭出場をかけたプロが対象の音楽コンクールだったが、後に新人歌手の登竜門となるアマチュア向けのコンテストに性格を変えた。73年から年2回開催となり、74年5月の第7回からは会場が群馬県嬬恋の「ヤマハリゾートつま恋」に変わったが、86年9月の32回まで続いた。
*6 「翼をください」は山上路夫作詞、村井邦彦作曲。
*7 グループ後期には渡辺俊之ら3人が加わっていた。
*8 紙ふうせんは77年に「冬が来る前に」というヒットを出した。ちなみに、2011年の第2回シーサイド・フォークジャンボリーには太田裕美、中村あゆみと共に、紙ふうせんがゲスト出演した。
*9 ハイ・ファイ・セットは結成当初、「卒業写真」「冷たい雨」「朝日の中で微笑んで」「中央フリーウェイ」「雨のステイション」など荒井由実時代のユーミンソングをシングルやアルバムで歌い、ユーミン人気の「露払い」的役割を果たしていた。ばんばひろふみもユーミンの曲で有名になったし、庄野真代は「中央フリーウェイ」をリリースしてテレビ番組によく登場していた。今回のシーサイド・フォークジャンボリーは「ユーミンつながり」の歌い手が3人集まったわけである。
*10 ハイ・ファイ・セットは77年ごろから洋楽のカバーを多く歌うようになった。Feelingsはブラジルのシンガー・ソングライター、モーリス・アルバートが75年に発表し、ウィキペディアによればブラジルはじめチリ、べネズエラ、メキシコで1位を取るヒットとなった。しかし、モーリス・アルバートは他にヒット曲がなく、世界的な「一発屋」といわれる。
*11 「赤い鳥」「紙ふうせん」とも紅白出場はなく、77年のハイ・ファイ・セットがこのグループでの唯一の紅白出場である。


 


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