江戸城を最初に築いた太田道灌*1(1432〜1486)は室町時代の武将である。足利幕府初期の関東地方は、尊氏が鎌倉に置いた鎌倉公方を頂点とする支配組織の統治下にあり、将軍に任命された関東執事(後に関東管領と呼ばれる)が公方(足利氏)を補佐する体制だった。その後、将軍家の姻戚として勢力を強めた上杉氏が3代将軍義満のころから関東執事を世襲するようになったが、上杉氏は兄弟など身内の対立が激しく、内部抗争が続いた。 |
結局、山内上杉家とその庶流・扇谷上杉氏が、他の上杉諸家*2に勝ち、以後は山内家が関東管領を独占した。道灌の太田家は扇谷上杉家の家宰(執事)だったが、抗争を通じて徐々に力をつけたようだ。一方、このころから京都の足利将軍家と鎌倉公方が対立するようになり、山内家が将軍側について鎌倉公方・足利持氏を滅ぼしたり、持氏の子・成氏が関東管領山内憲忠を暗殺する争乱となった。成氏は幕府軍に攻められ下総古河(こが=茨城県古河市)に逃れ、古河公方と称して利根川の東*3を支配、関東管領陣営と対峙した。 |
太田道灌は、古河公方陣営の有力武将だった房総の千葉氏を抑えるため、江戸に城を築き、1457年4月8日に江戸城が完成した*4。その後も戦乱が続いたが、道灌は30年に及ぶ30回以上の合戦を戦い抜き、1482年、ようやく古河公方と上杉氏の和議が成立した。 |
しかし、上杉家内の紛争は、山内家と、道灌の活躍で声望を高めた扇谷家の対立という形で再び火を噴き、その最中、道灌は1486年7月、扇谷定正の館*5で入浴後を襲われ死亡した。戦乱の中で力をつけ過ぎた道灌を恐れた定正の指示とみられる。しかし、道灌の死後も続いた抗争で、結局山内家も扇谷家も衰退し、北条早雲に攻められ、勢力を失った。 |
さて、太田道灌といえば有名なのは山吹伝説で、にわか雨にあった道灌が蓑を借りようと農家に立ち寄ったが、出てきた娘は山吹の花を一輪差し出した。意味が分からず戸惑った道灌が家臣にこの話をしたところ、後拾遺和歌集の古歌「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき*6」に掛けた奥ゆかしい断りと知り、恥じた道灌はその後歌道にも励んだというエピソード*7である。道灌は文武両道の才人だったようだ。 |
話が急に飛ぶが、私が奈良支局の駆け出し記者時代に最もお世話になった先輩である石倉明支局次長*8(当時)がこの8月に81歳で亡くなった。ここ数年、播州地方の施設におられたため、葬儀は姫路で行われた。私は時間の都合がついたので、通夜に参列したが、その席で喪主としてあいさつに立った一人娘の松井和佳・兵庫県立大学教授が「歴史好きの父が亡くなる直前まで、『あの太田道灌の七重八重は何の花だったかなあ』と、毎日のように問いかけては、『そや、山吹やった』と一人で納得していた」というエピソードを披露した。それが私の頭にこびりついているので、今回、太田道灌のことを書いた次第である。 |
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