和歌山市が生んだプロ野球の名将・西本幸雄元監督は、昨年11月25日、91歳の天寿を全うされたので、昨日が一周忌の命日である*1。今年新たに市の偉人・先人として顕彰*2、ゆかりの品や思い出の写真を集めた「名将・西本幸雄展」を6月に市の主催で開催した。 |
西本元監督は戦前の中等野球(今の高校野球)の名門・旧制和歌山中(現県立桐蔭高)出身で、4年生の秋にラグビー部から野球部にスカウトされた。当時は嶋清一投手*3を擁する海草中の全盛時代で、5年生だった1937年夏の予選は海草中に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。しかし、立教大進学後も野球を続け、監督不在のチームで実質的なプレイング・マネジャー役を務めた。卒業後、社会人野球に進み、プロ入り直前に所属した別府星野組でも選手兼監督を務めており、若いころから指導者としての才能があったようだ。 |
1950年、2リーグに分かれたプロ野球の毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に30歳で入団、一塁手として同年のオリオンズ日本一に貢献した。55年に現役引退、オリオンズ*4二軍監督や一軍コーチを務め、別当薫の後を受けて60年に監督に就任した。 |
このシーズン、大毎オリオンズは田宮、榎本、山内、葛城らのミサイル打線が火を噴き、プロ野球記録*5に並ぶ1引き分けを挟んで18連勝という快進撃でリーグ優勝を果たし、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)との日本シリーズに臨んだが、大毎圧倒的優勢の下馬評に反して4連敗、スクイズ失敗などの采配をめぐって永田雅一オーナーと大ゲンカとなり、監督を辞任した。「悲運の名将」といわれた西本監督の第1幕である。 |
その後、63年から阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)で11年、近鉄バファローズ*6で7年監督を務め、阪急で5回、近鉄で2回リーグ優勝したが、ついに日本一になれなかった。特に、1979年の広島東洋カープとの日本シリーズは、第7戦までもつれ込み、9回裏を迎えた。得点は4‐3で広島がリード、抑えの江夏がマウンドに上る。先頭の羽田が初球を中前に運び、代走藤瀬が二盗、捕手の悪送球で無死三塁となる。アーノルドは四球、代走吹石二盗で、平野は敬遠四球、無死満塁となった。しかし代打の佐々木は三振、次の石渡の1ストライクからの2球目、西本監督はスクイズを命じる。投球体制に入っていた江夏は「スクイズだ!」と直感、ボールを外す。空振り、三塁走者藤瀬は飛び出してタッチアウト、石渡も三振に終わった。野球史に「江夏の21球」として残る話だ。 |
翌年もリーグ連覇したが、同じ広島に3―4で敗れ、81年限りで西本監督は引退した。 |
西本元監督とは08年、嶋清一投手の野球殿堂入りを祝うパーティーが和歌山市で開かれた時にお目にかかった。87歳になっておられたが、頭はしっかりしていて、プロ野球のご意見番らしい風格と素晴らしいお人柄、何とも言えない優しさを感じたのを覚えている。 |
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またまた諸事情で余談独談が続くことになった。次回、次々回は惰学記の予定である。 |
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