明日  I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
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市民が主役



余談独談




勘三郎さん57歳

 歌舞伎の中村勘三郎さんが12月5日未明、急性呼吸窮迫症候群のため亡くなった。1955年5月30日生まれだから、私より9歳年下で、まだ57歳、余りにも早すぎる死である。
 勘三郎さんは4歳になる前の1959年4月に「中村勘九郎」として歌舞伎座で初舞台を踏み、当時から「カンクローちゃん」と親しまれる人気子役だった。成長するにつけ、持って生まれた天賦の才能が大きく開花し、古典歌舞伎を新たな演出で上演するコクーン歌舞伎や、野田秀樹作・演出による新作歌舞伎を演じ、ニューヨークでの歌舞伎公演を成功させるなど、歌舞伎界の長い慣習を尊重しつつ改革に挑戦し、常に新たな境地を開いてきた。
 50歳を迎える直前の05年3月に十八代目勘三郎を襲名、その後も台詞の一部を英語にした「隅田川続俤」をニューヨークで演じるなど意欲的な活動を続けたが、10年に突発性難聴で約7ヵ月舞台を休んで以後、健康状態が思わしくなく、今夏の検査で初期の食道がんと診断され、7月下旬に行われた手術は成功したものの、入院中に肺炎を起こし、肺水腫を発症、人工呼吸器や人工肺を使用する重篤な状態が続いて、ついに帰らぬ人となった。
 勘三郎さんの温かい人柄は多くの関係者が認めるところだ。勘九郎時代の1999年にNHK大河ドラマ「元禄繚乱」で大石内蔵助を演じた時に、その人柄がにじみ出るような名演でお茶の間に人気を浸透させた。あのドラマで歌舞伎ファンになった人も多かったと思う。
 実は享年57歳というのは、私の父と同じ*1だ。そのこともあって勘三郎さんの死に、私は特別の感慨を抱いてしまうのである。私の父の死についてはこのHPの「父との別れ」に書いたが、そこで触れていない父が病に倒れるに至った経緯をこの際書いておきたい。
 和歌山県は70年ごろ韓国・済州島に柑橘栽培の技術指導と紀州みかん苗木提供を開始、75年ごろには作付面積11,000ha、生産量7万トンを達成するほどの急成長*2を援助した。
 父は75年4月に3選を果たした後、済州島とソウルを訪れる計画を立て、同年9月初旬に訪韓、7日に帰国した。そして8日後の9月15日は御坊市で地方紙の祝賀会に出た後、和歌山市内で開かれた美山村(現日高川町)の村人会に顔を出した。さらに、済州道など訪問の際、現地で大歓迎を受けたことへのお礼に夕方、在大阪韓国総領事館を訪問。総領事らと会食し、歓談中に激しい腹痛に襲われ、やむを得ず中座して帰途に就いたという。だんじり祭りによる交通渋滞に巻き込まれて以後のことは「父との別れ」に詳述している。
 10年前に和歌山に帰ってから、信じられないほど多くの人に「お父さんとは親しかったんやで」と聞かされた。12月6日の読売新聞に劇作家の野田秀樹氏が「周りの誰もが勘三郎のことを親友と思っているんじゃないでしょうか」と勘三郎さんの人柄に触れていたが、私の父にもそんなところがあったのかも知れない。同じ57歳、優れた人は早死にする。
 
*1 私の父は1918(大正7)年1月18日生まれなので、1975年10月4日には57歳8カ月余。中村勘三郎さんは本文に書いた通り1955年5月30日生まれだから、2012年12月5日には57歳6カ月余だった。
*2 1965年当時の済州道のみかん作付面積は551ha、生産量は1,083トンに過ぎなかった。




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