明日  I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
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市民が主役



余談独談




隣人2人

 私たち一家にとって“母”とも“姉”とも言えるほどかけがえのない隣人2人が、年末年始に相次いで亡くなった。ともに高齢ではあったが、倒れる前日までは元気だっただけに、突然の不幸ごとが続いたことに、信じられない気持ちと、残念な思いでいっぱいだ。
 その1人は、私が和歌山に帰ってからずっと住んでいる和歌山市内原の家の隣人・元県議会議員・橋本進さんの奥さんである麗子さんである。大晦日の夜、クモ膜下にできた動脈瘤が破れ、救急車で病院に運ばれた。神経が集中している難しい部位のため、容体の安定を待って15日にカテーテル手術を行う予定だったが間に合わず、13日夕に死去した。
 麗子さんは元県の職員で、父の部下だった。父に頼まれ、当時小学生の私を、同僚たちと一緒に水軒浜海水浴場*1に連れて行ってくれた。58年も前に「水着姿」を見た仲である。
 彼女はその後、課の同僚の進さんと結婚、その時進さんは両親を亡くしていたので、父母が親代わりをした。父が知事となってから橋本さんは随行秘書となり、麗子さんとも家族同様の付き合いが続いた*2。父が1975年に急死してからも、一人暮らしとなった母をずっと見ていただき、77年に今の家を建てた時も、隣に住んでくださることになった。以来、私たちが和歌山に戻ってくるまで25年間、県議会議員*3となって活躍する橋本進さんを支えつつ、片時も母のことを忘れず、ずっと面倒を見ていただいた。私たちが戻ってからも、忙しい我々夫婦を気遣い、いつも料理のおすそ分けを母に届けてくれていた。ご近所の面倒見も良くて多くの人に慕われ、橋本家にはいつも大勢の近所のオバちゃんが集まっていた。誰からも好かれる素晴らしい「肝っ玉かあさん」で、この年末も病身の進さんの介護をしつつ、ご近所を含め6軒分のお節料理を作り、突然倒れたのである。81歳。合掌。
 もう1人は私の東京の家の隣人*4、須江美都子さんである。12月11日突然倒れ、亡くなった。美都子さんは、私の従兄・須江誠の連れ合いで、誠が1990年に死去した後も姑を支えて須江家を守り、その姑の死後も、姑が続けていた茶道を継いでお弟子さんたちにお茶を教えてきた。私たちが東京にいた時は、私の妻も須江家でお茶を習っていた。東京を離れてからは娘が一人留守宅に住んでいたので、美都子さんにとてもお世話になった。
 従兄はNHKに勤め、NHKエンタープライズ常務在職中に54歳で亡くなった。以来23年間、10月6日の命日には毎年、NHK時代の後輩たちが集まって故人を偲ぶ会が従兄の家で開かれ、昨年で23年も続いていた。従兄への敬意と、早逝を惜しむ気持ちももちろんだろうが、美都子さんの人柄も、会が続いた重要な要素だったと思う。彼女は多くの友人知人から慕われ、葬儀と通夜式には、一般の主婦の弔いには珍しいほど大勢が参列して、会の常連だったNHKの大幹部や幹部OBが弔辞や挨拶を述べた。75歳。ご冥福を祈る。
 
*1 水軒浜海水浴場は 頼宣に仕えた朝比奈水軒(段右衛門)が、寛永年間(1624-44)に城下の西の浜辺に高さ5m、延長1.6km余の防潮堤(水軒堤防)を造り、防風林として肥後松を植えた。明治に入って防潮堤の先の浜辺が海水浴場として整備され、学校プールが整備されていない時代の和歌山の子どもたちの水練の場として活用された。1960年代初頭に企業団地造成のための埋め立てが始まり、62年を最後に海水浴場は廃止された。
*2 父が知事になった1967年当時、知事公舎の隣に随行秘書の宿舎があり、随行秘書は四六時中知事と行動を共にするのが当たり前となっていた。したがって、麗子さんも、ほぼそれ以来45年もの間ずっと母の隣に住んでくれていたことになる。
*3 橋本進さんは79年に県議初当選、2003年まで6期24年県議を務め、議長も歴任した。
*4 私の父の姉夫婦が1955年ごろから東京・下北沢に住んでいて、私たち夫婦は85年の東京転勤以後その隣に居を構えていた。




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