明日  I will support Ohashi For tomorrow. 大橋健一
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市民が主役



余談独談




三四郎池

 漱石の「三四郎」は熊本の第五高等学校を出て東大に入った小川三四郎の初恋の物語である。三四郎は大学に入ってすぐに本郷構内にある心字池で美禰子とめぐり合い、彼女に恋心を感じるが、いつの時代も女は魔物、思わせぶりなそぶりを見せて三四郎の心を揺さぶり、結局は彼女の兄の友人と結婚してしまうという失恋物語なのはご承知の通りだ。
 現在の東大本郷キャンパスが、元々加賀百万石・前田家の上屋敷だったことは広く知られており、その名残が本郷通りに面した重要文化財の赤門と、この小説の重要な舞台の一つである心字池だ。これは余談だが、赤門は、大名家に嫁した将軍家の子女が住む奥御殿を御守殿と称し、その御殿の門を丹塗(にぬ)りにしたところから赤門と呼ばれるようになった。加賀前田家の御守殿門は、1827(文政10)年に11代将軍家斉の溶姫が13代藩主前田斉泰に嫁入りした時に建てられた。赤門は、火災などで焼失してしまったら再建してはいけない慣習があり、東大の赤門は災害などを免れて現存する唯一の貴重な門である。
 さらに話がそれる。実は和歌山城にも「赤門」がある。城の南西、現在の国道42号線沿いの追廻門*1で、1985年に解体修理された時、元々朱塗りだったことが分かり、今は赤く塗られている。私はてっきりこの門も御守殿門で、5代将軍綱吉の娘・鶴姫が紀州徳川家3代藩主綱教に嫁いだ時に朱塗りにされたものだと思っていた。しかし、追廻門創建は1629年とされ、綱教と鶴姫の婚姻は1685年だから、時代が合わない*2。どうやら追廻門は藩主がいた二の丸御座間の裏鬼門である南西にあるため、魔除けのため赤く塗られたらしい。
 で、本題に戻る。心字池は山手台地を浸食した谷に湧出する泉で、前田家上屋敷の育徳園という庭園にあった。育徳園は1638年、豪奢で風雅を好んだという2代藩主利常の時に築造され、4代綱紀の時にさらに補修された。当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれた。心字池は将軍のお成りのために、「心」という字をかたどって築造された池である。漱石の小説のおかげで、池は「三四郎池」と通称されるようになり、いまでは三四郎池という呼称の方がはるかに有名になった。なお、心字池というのは「三四郎池」のほかにもいくつもあり、東京では日比谷公園や陸奥宗光の屋敷だった旧古河庭園、京都の円覚寺、西芳寺、桂離宮などの庭、福岡県の太宰府天満宮や宗像神社にもあるという*3。
 さて、38年半前に亡くなった私の父は、戦前、小川三四郎と同様、第五高等学校から東大に進んだので、三四郎には特別な思いがあったようだが、私の方は、大学に普通の人より2年も長くいたのに、なぜか三四郎池の周辺に行った記憶がほとんどない。当時、三四郎池は知られたデートコースだったので、あのころ女性に縁がなかった私は近寄ることを避けていたのかもしれない。数年前、出張の空き時間に初めてゆっくり池を見に行った。
 
*1 この門あたりに馬場があり、馬を追い廻すことから追廻門と命名されたという。
*2 元々あった門に朱を塗ったとしても、56年も経った門ではボロボロで、腰入れにはふさわしくないと思われる。
*3 このあたりの記述はもっぱらウィキペディアを参考に書いている。


三四郎池
2010年6月、出張の合間に訪れた三四郎池


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