先日、千里・万博公園の国立民族学博物館を見学する機会があり、6月上旬まで同館で開催中の特別展「マダガスカル 霧の森のくらし」を担当者の解説付きで見せてもらった。 |
マダガスカル共和国はアフリカ南部のモザンビーク沖約400qのインド洋上にある島国だ。島の面積は世界第4位*1で、587,041km2ある。日本全土の約1.55倍の広さである。 |
さて、この特別展はマダガスカル島中央高地(海抜約1,000m)の「霧の森」と呼ばれる地域に暮らす「ザフィマニリ」という人々の生活ぶりを紹介するもので、独特の様々な幾何学模様を刻んだ木製の窓をはじめとする木製品、植物の繊維を編んで作ったカゴ、帽子、わら細工、釘を使わずに木組だけで建てる木造家屋などが実演を交えて見学できる。 |
驚きなのは、この地に伝わる文化が、アフリカ南部のものとは異なり、東南アジアのマレー・ポリネシア系の海洋民族と共通点が多く、マダガスカル島の最初の住民が1世紀ごろ東南アジアのボルネオ島から渡ってきたことが学問的に確実視されていることである。 |
ボルネオ島とマダガスカル島は直線距離で8,300kmも離れているが、帆走航海用カヌーで途中ジャワ島に立ち寄り、あとは貿易風に乗って一路西へ進めば、ジャワから6,000km、30日あれば到着可能で、1世紀ごろの東南アジア海洋民族の技術をもってすれば十分現実的な航海だという*2。もちろんボルネオ系民族の到達後の約2000年の間に、対岸のアフリカ大陸やアラブの国々からも進出してきた人々がおり、16世紀ごろからはヨーロッパ系との混血も進んだが、DNA研究や言語学、本体の両側に浮きが張り出したカヌーの存在*3などの文化人類学的知見によって、ルーツが東南アジアにあることは動かせないという。 |
現代に住む私たちにとって、海は車や鉄道による人の行き来を妨げ、国々の交流を困難にする障害物に見えるが、古代人にとっては海こそが道だったようだ。「“邪馬台国”はなかった」の著書で有名な古田武彦氏が、魏志倭人伝に記された女王国からさらに彼方にある国々の記述の最後あたりに「また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし」という記述があるのに着目し、これを南米大陸の国々とする説*4を唱えた。 |
この説は学界では全く無視されているが、@縄文式土器とエクアドルの土器の類似A裸国・黒歯国が南米側の伝承にも登場するB北太平洋海流とカリフォルニア海流に乗れば記述通りの期間でエクアドルに到達できる*5――などを傍証と考えれば十分ありうる話だ。 |
考えてみれば、明治時代に鉄道が日本全国に次々敷設されるまでは、長距離移動の最も有力な手段は航海で、海に面していた紀州和歌山は、当時は交通の要衝だった。「稲むらの火」の濱口梧陵*6は銚子と湯浅を船でしょっちゅう行き来していたわけだし、多くの紀州人が船を使って内外に雄飛した。海上交通が衰えたことが紀州を田舎にしたとも言える。 |
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