当コラムを読んでくださっている皆さんは和歌山市が「偉人・先人」として顕彰している我が国航空界のパイオニア、山田猪三郎(1864〜1913)のことをご存じだろうか*1。 |
猪三郎は今の和歌山市堀止西で紀州藩士の子として生まれた*2。幼いころから自然観察が好きで手先も器用だったらしく、近所の和歌川の流れや、水の抵抗、ものを浮かべた時の浮力などを観察していた。しかし、明治維新で父が失職し、苦しい生活が続いたようだ。 |
猪三郎22歳の1886年10月24日、串本沖で英国の貨物船「ノルマントン号」が遭難、英国人の船長ら26人の乗組員は救助されたが、日本人25人とアジア各国の12人は船室に放置され、全員死亡した。治外法権の不平等条約時代で、船長だけが禁固3ヵ月という軽い判決に我が国世論は沸騰したが、猪三郎は「怒るだけでは解決しない。水難事故から命を守るためにゴムで携帯用の救命具を作ろう」と決意、大阪に出かけ、手先の器用さを生かして外国人技師からゴム製品の製造法を学び、3年後、救命具は完成し特許を取った。 |
さらに、92年には東京・高輪に工場を建設、日本初の折りたたみ式ライフジャケット(浮器)を開発。その後、空に目を向け*3、ゴム加工の技術を生かした気球製作に着手し、8年後の1900年に風に強い卵形の「山田式凧型」係留気球*4が完成した。気嚢は絹布を二重にした布地にゴムを塗ってガス漏れを防ぎ、風に乗って凧のように上昇するよう工夫した。この気球は軍に採用され、日露戦争の旅順攻略作戦では偵察に大きな成果を上げた。 |
猪三郎はさらに、自在に空を飛べる飛行船制作に取り組み、10年に山田式飛行船1号機を東京上空に浮かべ*5、11年9月には3号機*6で東京上空20km、25分の周遊飛行を実現した*6。ところが、山田式飛行船は陸軍に採用されず*7、猪三郎は資金に窮し、辛亥革命前夜の中国革命軍のオファーを受けて、12年に4号機大鵬号を中国に持ち込み、デモンストレーション飛行を成功させた。だがその夜の暴風雨で飛行船は跡形なく吹き飛ばされてしまう。猪三郎は失意の帰国途上の船内で病を得て、翌年4月8日に死去、満49歳だった。 |
猪三郎の17回忌*8に地元の有志が和歌山市の景勝地・高津子山のふもとに顕彰碑を建てたが、その後彼の功績は長く忘れられ、碑も一時は倒壊寸前だった。飛行船初飛行100周年となる2010年ごろから地元のグループが立ち上がり、顕彰会を結成。碑を修理しきれいに磨くための募金活動を行い、多くの賛同者の寄付で顕彰碑はよみがえった。今年は猪三郎没後100年。命日の4月8日に「大空へ かけた夢 山田猪三郎物語」という本*9が顕彰会から上梓され、出版記念会も開かれた。私も参加し、猪三郎の曾孫で今も観測用の気球製作に携わる葛C球製作所(東京)の豊間清社長ら多くの関係者が顕彰碑に参拝した。 |
濱口梧陵、陸奥宗光、南方熊楠、そして山田猪三郎、松下幸之助……。昔の紀州人には、時間や空間のはるか先を見つめていた人が多かった。見習わなければと思うが難しい。 |