名古屋には立派な徳川美術館があって、尾張徳川家ゆかりの豪華な品々が所狭しと展示されているが、紀州徳川家には美術館はおろか、伝来の美術品というものが存在しない。 |
13代藩主だった慶福(よしとみ)が14代将軍・家茂となったため、紀州藩は支藩である伊予・西条藩*1から茂承を迎えて14代藩主とした。しかしこのころは幕末の戦乱期で、1866年の第二次長州征討では、茂承が家茂から先鋒総督を命じられたため莫大な戦費を費やす羽目になる。また翌年は藩の軍艦明光丸が瀬戸内海・鞆の浦沖で坂本龍馬ら海援隊の借り受けた蒸気船いろは丸と衝突、沈没させた「いろは丸事件」があり、賠償金70,000両*2を払わされた。さらにその翌年、戊辰戦争時には幕府軍の敗兵が多数紀州藩に逃げ込んだため、新政府軍に攻撃されそうになった。この時、茂承は自ら病を押して京都に参上、藩兵1500人と軍資金15万両を献上して恭順の意を表すことで、何とか討伐を免れた*3。 |
明治維新後の紀州徳川家が手元不如意となったのは、こうした事情からかと思っていたが、そうでもなかった。1871年の廃藩置県で和歌山藩知事を辞職した茂承は東京に居を移し、最初は紀州藩の中屋敷(今の迎賓館と赤坂御用地)に住んでいたが、その2年後、皇居江戸城西の丸が焼失した時に皇室に屋敷を献上し、麻布飯倉の邸宅*4に移ったという。 |
茂承は新政府の下で困窮する旧紀州藩士の協同組合のような「徳義社」設立を思い立ち、10万円を拠出、その子弟のために和歌山に徳義中学校を設立するなど旧紀州藩士援助に奔走した。その子頼倫は英国留学し、南方熊楠や孫文と親交があったが、帰国後の1902年、飯倉の屋敷内に「南葵(なんき)文庫*5」という私立図書館を開設、さらに1911年、数十万円の基金を拠出して南葵育英会を設立、紀州出身者に奨学金貸与、学生寮を提供した。 |
16代当主の頼貞*6は音楽に傾倒して本格的な音楽堂建設を志し、南葵文庫近くに「南葵楽堂」を第一次大戦終結直前の1918年10月に開設した。楽堂地下に音楽文庫*7が設けられ、1920年には楽堂内にアボット・スミス社製の7万円のパイプオルガン*8が設置された。 |
しかし、こうした散財と度々の欧州豪遊で紀州徳川家の家計は大きく傾いた。関東大震災(23年)やその後の金融恐慌の影響もあり、多額の借金を抱えた紀州徳川家は、藩祖頼宣に献上された加藤清正の兜*9など家宝や伝来什器を1925年以後計3回売却し、500万円余を得たほか、都内の所有地の多くを売却した。しかし、頼貞の荒い金遣いは変わらず、頼倫から受け継いだ遺産3000万円(今の金で1700億円!)を使い果たしたといわれる*10。32年には音楽文庫を閉鎖*11、37年には代々木上原屋敷を分譲売却したが、事業の失敗も重なり、家宝はほとんど散逸した。茂承−頼倫−頼貞の3代は、和歌山や音楽のために気前良くお金を使ってくれたが、その結果、紀州徳川家の貴重な宝は消えてなくなった。 |