きょう11月5日は津波防災の日*1である。安政南海地震(1854年11月5日)の時、大津波から広村(現・和歌山県有田郡広川町)の住民の命を救うため、自らの田の稲わらに火を放ったことで知られる濱口梧陵(1820〜86)のことは前にも書いた*2が、東日本大震災のすさまじい津波被害を目の当たりにし、近々必ず起きるとされる南海トラフの地震と大津波の恐怖にさらされている和歌山県民の1人として、改めて梧陵の事績を調べてみると、ラフカディオ・ハーン*3ではないが、まさに彼は「living God」だったことが分かる。 |
梧陵が震災直後から近隣の村を回り、米を借りての炊き出しなど救援活動と道路や橋の修復工事、避難所建設などに奔走、さらに、いずれまた大津波が来ると考え、5,000両近い私財を投じて当時最大級の堤防を建設したことは前にも書いた。これによって被災住民は仕事を得て、離散も防がれた。この広村堤防は1946年の昭和南海地震時に住民を救い、今も立派に役割を果たしている。こうした地域リーダーとしての功績は特筆に値する。 |
だが、功績はそれだけではない。元々梧陵は現在のヤマサ醤油の前身である濱口儀兵衛家の当主を継ぎ、千葉県銚子で醤油醸造業を営んでおり本拠はあくまで房総だった。しかし、江戸にもたびたび出かけ、当時の多くの文化人と交友、ふるさと紀州へもたびたび足を運んでいた。紀州への強い思いは終生変わらず、震災前の1852年には県立耐久高校の前身である耐久舎を開設し、地域の教育の礎を築くなど若いころから何かと郷土の発展に尽力した。安政南海地震の時期も、たまたま広村に帰っていて、大災害に遭遇したのである。 |
人材育成や学問の発展、社会貢献のためには労を惜しまない人物だった梧陵は、近代医学の普及にも尽くした。下総佐倉藩の藩医から江戸神田お玉ケ池種痘所(東大医学部のルーツ)の頭取となった三宅艮斎*4(1817〜1868)や、銚子で医院を開いた蘭方医・関寛斎*5(1830〜1912)と交友し、寛斎に艮斎からコレラ予防法を学ばせ、銚子でのコレラ流行防止と種痘の普及に貢献した。寛斎は梧陵の支援で長崎に赴き、ポンぺ*6に学んだことが戊辰戦争で官軍の奥羽出張病院長として敵味方の隔てなく治療に当たったことに繋がる。 |
梧陵は政治家としても秀でていた。幕末の1868年に商人としては異例の抜擢*7で紀州藩勘定奉行に任命され、藩政改革の中心となって和歌山県の経済近代化に尽くした。1871年には大久保利通の要請で初代駅逓頭(後の郵政大臣)に就任したが、郵政事業をめぐる考え方の違いから副官の前島密と対立して半年足らずで辞職している。その後は1880年に和歌山県の初代県会議長となり、混乱状態だった議会のまとめ役として手腕を発揮した。 |
実業家で、政治家で、地域リーダーで、教育者で、行政マンで、篤志家でもあった梧陵は常に未来を見る先覚者だった。念願の海外旅行中に病を得て死去*8したのは惜しまれる。 |
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