3月11日。東日本大震災から3年が過ぎた。あの大惨事発生以後、大きな災害に関連して「正常化の偏見」という言葉がしばしば用いられるようになった。社会心理学用語である「nomalcy bias」の訳語だが、あまり適切とは思えない。「正常化」は、常態でない状況を正常に戻すというイメージで、国会審議が止まった時、与野党が協議して再開の合意に達する「国会正常化」のように使われるのが普通だし、「偏見」は、人や物事を悪いように決めつける判断を意味する言葉なので、「異常な自然現象が起きているのに正常と思い込んでしまう心理」を「正常化の偏見」と言うとニュアンスがかなり違うからだ。むしろこの訳語が「nomalcy bias」という心理の怖さを正確に伝えにくくしているようにさえ思える。 |
中国の古典に「杞憂」という話が出てくる。今から3000年以上前の中国・周代にあった「杞」という小国の男が「いつか天が落ち、地が崩落して身の置き所が無くなるのではないか」と心配して、夜も眠れず食事もとらなかったという故事から、極端な心配症、取り越し苦労のことを「杞憂」と言うのである。考えてみれば、いつ歩道に暴走車が突っ込んでくるかも知れないし、乗った電車の運転士が心臓発作で電車を止められなくなって大惨事となることもありうる。旅客機もテロリストによって9.11のような悪夢に遭遇しないとも限らない。心配するときりがないわけで、普通の人間は日々の生活で多少いつもと違ったことが起きても、心が過剰に反応して疲弊しないように、正常の範囲内ととらえ、心を平静に保とうとする心理が働くように出来ている。これが通常の「nomalcy bias」だ。 |
しかし、災害時には、「nomalcy bias」が裏目に出ることが少なくない。避難指示や避難勧告が出ても、「大したことないだろう」と高をくくって逃げず、命を落としたり、間一髪の状況に陥るケースや、避難を指示したり、誘導・先導すべき人たちに「nomalcy bias」が働いて、被害が拡大した例が東日本大震災など大きな災害*1では必ずあった。大災害に直面した時に、いかに「nomalcy bias」にとらわれないで、正しい判断ができるかが住民一人一人に問われていると同時に、企業や行政には、「これぐらいで大丈夫だろう」という甘い対策ではなく、真に市民の安全を守るための対策が求められるわけで、責任は重い。 |
そういう視点で、福島第一原発に対する東京電力の対応を見ると、事故後も事故前も「この程度で大丈夫だろう」と言う思い込み(典型的なnomalcy biasである)に支配され続けていたことがよく分かる。震災前、地震や津波を懸念する声に耳を傾けず、柏崎刈羽原発が新潟県中越沖地震でトラブルとなった時の教訓を生かさなかった*2結果、あの大事故を招き、その後も、汚染水の海洋流出を防ぐ抜本的対策を怠り、応急策に終始した結果、事故後3年たっても垂れ流しが止まらない。責任ある大企業とは到底思えないお粗末さだ。 |
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