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余談独談




「袴田事件」

 いわゆる「袴田事件」の犯人とされ、死刑判決が確定していた元プロボクサー・袴田巌さん(78)の再審請求が静岡地裁で認められ、袴田元被告は48年ぶり*1に拘置所から釈放された。私は当コラムに7年前、「袴田事件」関連の新聞記事を批判する一文を書いたことがある*2ので、再審開始決定は感慨深い。袴田元被告の釈放を心から喜びたい。
 「袴田事件」と言われる事件は、1966年の6月末に清水市(現静岡市清水区)で、味噌製造会社専務一家4人が何者かに殺され、放火された事件で、発生から5日後に従業員寮が家宅捜索され、袴田元被告の部屋から極微量の血痕が付いたパジャマが押収された*3。重要参考人としての取り調べが約1カ月半続いた後、8月18日に袴田元被告は強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕された。犯行を否認する袴田元被告に対し拷問に等しい取り調べ*4が続き、勾留期限の3日前に袴田元被告は「自供」、起訴された。静岡地裁で自供を翻し冤罪を訴えたが、死刑判決。高裁、最高裁も一審を支持して80年11月に刑が確定した。
 翌年出された再審請求は13年後の94年に棄却、弁護側の即時抗告も10年後の2004年に東京高裁が棄却し、最高裁も4年後の2008年に特別抗告を棄却した。弁護側は直ちに2度目の再審請求を行い、約6年後の今年3月27日、静岡地裁が再審開始を決定した。
 7年前に私が取り上げた記事は、07年3月10日読売新聞の「袴田事件元裁判官『無罪の心証』」という社会部記者の署名解説である。68年に静岡地裁で死刑判決が下された時、左陪席*5だった熊本典道元判事が07年1月に「私は無罪と思ったが、裁判長ともう一人の陪席が有罪と判断、多数決で死刑が決まった」と告白し、再審請求運動に加わると表明したことを批判する内容だった。論旨は誠に単純で、「裁判所法は裁判官の議論の中身公表を禁じている(評議の秘密)。裁判官の意見不一致が明らかになれば判決への信頼が損なわれる」ので「熊本氏の言動は職業倫理違反」と決め付け、裁判員制度との兼ね合い*6で「裁判員の模範たるべきプロが禁を犯しては示しがつかない」と元判事を非難している。
 この記事には、無実の人に死刑判決を下してしまったかもしれないと悩み続けた元判事の心情*7や、その結果40年以上も死の恐怖にさらされながら拘置所生活を強いられた袴田元被告に対する思いがカケラも感じられず、確定判決を守る妨げとなる元判事の言動に眉をひそめる法務省や検察庁の言い分を代弁する「おべっか原稿」としか言いようがない。
 7年前、熊本元判事をこき下ろした記者は、袴田元被告の再審開始が決まった今、自分の主張がなお正しいと思うにしても、反省するにしても、再び署名記事を書くべきだと私は思う。話は飛ぶが、佐村河内守氏をベートーベンの再来と持ち上げた記者も、小保方晴子さんをあんなに囃し立てた人たちも、ぜひ署名記事で反省を表明してほしいものだ。
 
*1 袴田元被告は2013年4月、「世界で最も長く収監された死刑囚」として、75歳の誕生日である2011年3月10日付でギネス認定された。死刑確定後の拘置期間が袴田元被告より長い死刑囚は他にもいるが、1審の死刑判決(1968年9月11日)から42年の時点で「世界最長」と認定された。なお、検察は最新開始決定を不服として、3月31日東京高裁に即時抗告した。これによって、高齢で、長期の拘禁によると見られる認知症の悪化が見られる袴田元被告の再審無罪判決がさらに引き伸ばされることになる。
*2 2007年5月1日の余談独談「粋(スイ)なことを」。
*3 袴田元被告はアリバイがなく、元プロボクサーで、事件後左手中指に負傷していた(弁護側は事件の消火活動によって負傷したと主張)ことなどから疑われた。捜索で押収されたパジャマから、ごく微量の血液とともに放火に使われたものと同種の油が付着していたとして捜査当局は袴田元被告を逮捕、*4に記すような拷問に近い取り調べを続け、自白させた。しかし袴田死刑囚は公判では一貫して否認、今度は67年8月末に工場内の味噌タンクの味噌の中から衣類5点(ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、スポーツシャツ、半袖シャツ)が入った麻袋が見つかり、パジャマを着ていたはずの袴田死刑囚が「犯行時に来ていた衣類」と認定された。静岡地裁は「自白調書」45通のうち1通を除き任意性を認めず、証拠採用しなかったが、それでも有罪と判断、死刑判決を出した。控訴が棄却され、弁護側が上告した76年ごろから袴田被告の冤罪説が広まり始め、79年にはルポライター高杉晋吾が雑誌に冤罪説を掲載、「救う会」が設立され、日弁連も動き出した。再審請求が行われてからは、袴田元被告の昔仲間のプロボクシング関係者も冤罪を訴え始め、ファイティング原田や輪島功一といった元世界チャンピオンも積極的に救援活動に加わったが、再審の壁は厚く特別抗告も棄却された。しかし、2度目の再審請求を受けた静岡地裁の裁判官が、検察側が公開していなかった5点の衣類などの開示を求め、衣類がDNA鑑定に付された結果、付いていた血液は元被告のものとも被害者のものとも一致せず、しかも1年以上も味噌タンクに隠されていたとは考えられない色で、縮み具合も不自然で、今回の再審開始決定では、捜査当局の証拠捏造を示唆している。
*4 弁護側によれば、炎天下の取り調べが毎日平均12時間、最長17時間にも及んだ。取り調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で用を足すことを強要されたり、睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋に収容、その泥酔者にわざと大声を上げさせ、安眠もさせなかった。勾留期限が迫ると、調べはさらに過酷になり、2、3人がかりで棍棒で殴ったり蹴ったりの拷問が昼夜を問わず行われたという。
*5 裁判所法26条で、死刑または無期もしくは短期1年以上の懲役もしくは禁錮に当たる罪の刑事事件裁判は原則として合議で行われることになっている。地方裁判所の合議体は3人の裁判官で構成され、裁判係属部の総括判事が裁判長となって法廷中央に座り、裁判長から見て右に裁判長より若手の判事または特例判事補が座る。これを右陪席裁判官という。裁判長から見て左には経験5年未満の未特例判事補が座り、これを左陪席裁判官と呼ぶ。熊本元判事は3人の裁判官の中で最もペーペーの左陪席で、自分は無罪と考えながら、先輩2人に押し切られ、慣例によって自身で死刑判決を書く羽目に陥った。
*6 当時裁判員制度は2年後の2009年実施に向け、法曹3者が協力して実施への地ならしキャンペーンが行われていた。この読売の記事では、重大事件の審理に市民が参加する裁判員制度が09年から始まるが、素人の裁判員が評議の秘密を守るのは難しいのではないかとの懸念があり、評議の秘密漏洩には罰則が設けられたこととの関係で本文に引用した「模範たるべきプロが禁を犯しては」云々という言葉が使われている。
*7 熊本元判事は1963年に任官、3年後に左陪席として「袴田事件」の審理にあたった。法廷で真っすぐに裁判長を見据えて受け答えする袴田の様子や、任意性に乏しい供述調書などを通じ、有罪認定は難しいと思ったのに、先輩裁判官に押し切られたことを終生悔い続け、一審判決の半年後に裁判官をやめ弁護士となった。判決から38年後の2007年になって「無罪の心証」を持っていたのを告白したことは、元判事が「正義」と「評議の秘密」のはざまでずっと苦悩し続けていたことの証左に他ならない。元判事は最終的に、「裁判官倫理」を守るより無罪の可能性のある人の命を守ることの方が正義だと考えたのである。


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