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氷雪の門


 惰学記に「北緯46度」というタイトルで、日本の北端の話を書いたが、第2次大戦終結までは、日本最北端の地は樺太(現サハリン)の中央、北緯50度線であった。日露戦争終結後のポーツマス条約で樺太の南半分がロシアから日本に割譲されたからである。
 今から60年前の第2次大戦末期、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連書記長がソ連南部のヤルタで秘密会談を開き、日露戦争などでロシアが失った南樺太などの権益回復と引き換えに、ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦することなどが秘密協定された。これを根拠にソ連軍は、昭和20年8月8日に対日宣戦布告して条約を破棄、満州に攻め込んだことはよく知られている。
 ソ連の参戦と米の広島・長崎への原爆投下で日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し降伏、戦争は終わった。ところが5日後の8月20日、サハリン南西部のホルムスク(旧真岡)に、ソ連軍が海からの艦砲射撃に始まる総攻撃を開始、たちまち真岡市を占領した。
ポツダム宣言で「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにわれらが決定する諸小島に局限される」とあり、日本がそれを受諾した以上、日本がその時点で南樺太の主権を放棄したと判断せざるを得ないが、戦争終結後である以上、日本人の引き揚げとソ連の進駐は平和裏に行われるべきで、総攻撃が許されるはずがない。にもかかわらず、ソ連軍は真岡に攻め込んだのである。
 郵便局の2階で電話交換業務についていた真岡の9人の乙女が、ソ連軍のすさまじいの進撃状況を軍や近隣の町の郵便局に打電し続け、兵士が郵便局に近づいてきたため、「敵は完全に市街地を占領しました。ここもまもなく占領されます。これが最後の連絡です。もうすぐ電話線も切れます。さようなら。みなさん、さようなら。これが最後です。さようなら・・・・」の通信を最後に、万一に備えて持っていた青酸カリで全員自決したと伝えられる悲劇(大丘忍「氷雪の門」より)は、ようやく最近多くの人に知られるようになった。
 「氷雪の門」はサハリンで亡くなった人々の慰霊と望郷の念を込めて宗谷海峡を望む稚内公園に昭和38年に立てられたものだが、43年に当時の両陛下がこの地を訪問された時、9人の乙女の話に感銘し、歌を寄せられたことから、2年後に「氷雪の門」の隣に「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と刻まれた9人の乙女の碑が立った。
 乙女たちの悲劇のインパクトが強いせいか、その後稚内公園を訪れる人は「氷雪の門」というと乙女たちを連想するようで、昭和49年に乙女たちの話が映画化されたとき、タイトルが「氷雪の門」となったようだ。だが、この映画は当時のソ連から横槍が入って上映が中止され、自主上映の形で見られるようになったのはソ連崩壊以後のことだ。


映画「氷雪の門」のポスター
奄ェ宗谷海峡近い稚内公園に立つ「氷雪の門」と「9人の乙女慰霊碑」
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